我楽多箱  1999

カオス映像
生産性向上の果てに
記念切手
ノストラダムスを超えて
いよいよ国民総バーコード制
民の世である日本に合わない
大きくなったら
ある牧師の告白
丸山ワクチンへの中傷に対して
脳死移植で思ったこと
心の中のつぶやき


1999.12  

カオス映像

 以前に何かのテレビ番組で「これがカオスです」と紹介されたものがありました。 それはカオスの映像で、ビデオカメラを持っている人なら簡単に見ることができます。
 まずビデオカメラをテレビにつないで、テレビの画面をビデオカメラで写します。 すると合わせ鏡のようにカメラで写したテレビの画面がテレビに写り、 そのテレビの中にテレビが写るという無限の繰り返しが発生します。 その状態でビデオカメラをズームにすると、拡大された映像が画面に写り、 その画面をビデオカメラがさらに拡大するという無限の拡大の繰り返しが発生します。 そのときの映像は、 テレビの中から得体の知れないものが次から次へと出て来るといった様相になります。  カオス1  カオス1  カオス1  (残念ながら、無限の拡大の結果、 原子の世界が見えるようになるわけではありません。)
 テレビの中からカオスが飛び出して来るようになったら、カメラを傾けます。 すると今度は、傾いた映像が画面に写り、 その画面をビデオカメラがさらに傾けるという無限の繰り返しがまた発生します。 そのときの様子はテレビの中からカオスが渦巻きながら飛び出して来るという、 実に不思議な(私にとっては感動的な)光景となります。  カオス2  カオス2  カオス2



1999.10  

生産性向上の果てに

 活性化した企業は生産性の向上を追求し、 いかに効率よく利潤を上げるかを常に模索しています。 同じ仕事を漫然と繰り返す社員ではなく、 常に問題意識を持って効率よく仕事をこなす方法を考えている社員は企業の宝です。
 役所から押し付けられたマニュアルに満足することなく、 もっと効率のよい方法を編み出して、 新しいマニュアルを企業に認めさせた社員は表彰ものです。 まだまだそれに妥協することなく、もっと生産性を上げる方法を試していたときに、 青い光が現れたのです。臨界の光です。1999年9月30日のことです。
 企業の宝は放射線をまともに受けて、瀕死の状態になって倒れました。 企業戦士は、役所から与えられたマニュアルの内容の一つひとつに、 何の意味が込められているのかを理解していなかったのです。
 何のためにこれは存在するのか? 何のためにこうするのか?  何のための人生か? 明確な目的意識を抱いて生きていけますように。



1999.10  

記念切手

 私が小学生だったころ(60年代中ごろ) 回りでは記念切手を集めることが流行っていて、私も集めていました。 記念切手の発売日には、母に頼んで郵便局へ買いに行ってもらいました。
 日本切手型録(だったか?)という本が毎年発行され、 それまでに発行された切手がカラーで印刷されていました。 その下には取引値段が、未使用、使用済み、シートなどに分けて表示されていました。 大蔵省印刷局と印刷されたシートの端がつながっている切手は、 「大蔵省付き」と呼ばれ、特に価値があると言われていました。
 デパートには切手売場があり、古い記念切手や紙幣、コインなどが並べられていて、 小学生の私には宝の山に見えました。 デパートでの売り値は型録に書いてある値段よりも高かったのですが、 どうしても欲しくて、額面の何十倍もする切手を小遣いを貯めて買いました。
 将来すごく価値が上がって、 きっともっと高く売れるに違いないと信じて疑いませんでした。 しかし私はこれまでに切手を売っている場所は見たことがあっても、 買ってくれる場所は一度も見たことがありません。
 ある日テレビで切手商が話すのを見ました。
「『月に雁』のような特別にプレミアムが付いたものでない限り、 バラの切手は買い取りません。 シートの切手は買い取りますが、額面の65%ぐらいの値段です。」
つまり封筒に貼って使うよりも、はるかに価値がないということなのでした。 あの切手型録に書いてあった価格はいったい何だったのでしょうか。
 そう言えば、友達のお父さんが記念切手をシートでどっさり持っているのを見て、 うらやましく思っていましたが、その切手は今ではどうなったのでしょうか。 私の切手も、きっといつかは日の目を見ると一縷(いちる) の望みを抱いて、押入れの中で朽ち果てるまで眠り続けることになるでしょう。



1999.9  

ノストラダムスを超えて

 1973年に「ノストラダムスの大予言」という本が出版され、 ベストセラーになりました。 その中心は「1999年の7の月に恐怖の大王が降ってくる」という予言で、 ノストラダムスはフランス国王アンリ2世に 「そのとき、この世の生き地獄のような惨禍がおそってくる」と語ったそうです。 そして予言された時が過ぎ去った今、 恐怖の大王と呼べるようなものが何も降ってこなかったことに安堵しました。
 ノストラダムスはフランス王妃カトリーヌ・ド・メディチに、 「もし『別のもの』が現れれば、恐怖の大王は降らない」と語ったということです。 大予言者ノストラダムスの予言が成就しているとすれば、 『別のもの』がすでに現れたということになります。
 別のものとは人類の新しいパラダイム(考え方の枠組み)のことでしょう。 それは、2500年前に説かれた釈尊の法(仏教)や 2000年前に説かれたイエスの法(キリスト教)というパラダイムに続き、 さらにそれらをも包括するパラダイムであるはずです。
 やがて、新しい法が地上にもたらされたという福音が、 世界の隅々にまで述べ伝えられることになるでしょう。 かつて、イエスが当時の裁判でカルトとして死刑判決を受け、 十字架上で処刑されたように、 新しい法もカルトと形容され、 古い勢力や権力の側から攻撃を受けることにもなるでしょう。 (ただし、イエス・キリストと麻原彰晃を同列に扱う愚を犯してはなりません。)
 私たちは本物と偽物を見分ける眼を養っておく必要があります。 それはとらわれのない心の眼です。 自らの心を見つめ、自らを既成概念のとらわれから解放して、 真の自由を手に入れておきましょう。



1999.8  

いよいよ国民総バーコード制

 すべての国民に10桁の番号(住民票コード)を付けて、 氏名など4情報をコンピューターで一元化する住民基本台帳法改正案が、 1999年8月12日に自自公ファシズム政権により、 委員会採決を省略して強引に可決されました。 この制度はかつて国民総背番号制と呼ばれ忌み嫌われていましたが、 私はこれを現代風に国民総バーコード制と呼びたいと思います。 この制度について、ある与党の大物は 「安全保障や治安維持に使わないなら何のためにやるんだ」と本心を語っています。
 今や、あらゆる商品にバーコードが付けられていますが、 ついに国民一人ひとりにバーコードが付けられる時代が来たと言えるでしょう。 新約聖書のヨハネの黙示録に記されている
獣の数字はバーコードである という説を裏付けているようです。 かつて凡人と呼ばれた人物は獣人と化して支持率も絶好調、 その勢いはもはや誰にも止めることはできません。



1999.8  

民の世である日本に合わない

 昨年、テポドン騒動があった時、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は 「金正日将軍の歌を放送しながら人工衛星が軌道を回っている」と発表した。 世襲の個人をたたえる歌という発想に異様さを感じ、 かつてテレビのワイドショーで流されていたオウム真理教の教祖の歌を連想した。
 君が代もこれらと同じ発想であることに気が付いた。 小渕首相はこれまであいまいにされてきた君の意味を 天皇個人を指していると明言した。 今の天皇がどんなに人格者であっても、 君が代の歌詞は民の世である現代日本にふさわしくなく、 国歌として法律で定めるには無理があると思う。

1999年 毎日新聞掲載

ラップなら5秒で終る我が国歌   川柳/谷村裕さん



1999.6  

大きくなったら

 最近の男の子は、 「大きくなったら大工さんになりたい」という子が一番多いそうです。
 わが家の幼稚園児ジェネ君にお母さんがたずねました。
「ジェネちゃんは大きくなったら何になりたいの?」
「ピーマン!」
「えっ、ピーマン?」
「うん。」  ピーマン  ピーマン  ピーマン  ピーマン  ピーマン
ジェネ君はピーマンの絵を描き始めました。紛れもなく、あの野菜のピーマンでした。 ウーン、この子は一体‥‥‥??
 政府・文部省は「大きくなったら、お国のために軍人さんになりたい」という子を 増やしたくて躍起になっているようですが、なかなかそうもいきますまい。 東ティモールでは軍人が一般住民を虐殺していたそうです。 今も昔も軍人の本質は変わりません。 破壊(軍人)よりも創造(大工)を目指す子の方が私は好きです。



1999.5  

ある牧師の告白

 ある牧師は、ナチの運動が起こり、彼らが色々なことを始めたときに、 自分が全く無関心であったことを悔い、恥じています。
 「共産党員が迫害された。私は党員ではないからじっとしていた。 社会党員が弾圧された。私は党員ではないから、やはり沈黙していた。 学校が、図書館が、組合が弾圧された。やはり私には直接的な関係がなかった。 教会が迫害された。私は牧師だから立ち上がった。 しかし、その時はもう遅すぎた……」
「サイレント・コーリング/三宝出版」より

 日米防衛指針関連法が成立した。私は自衛隊員ではないからじっとしていた。 通信傍受法が成立した。私は薬物犯罪に関与していないから、やはり沈黙していた。 国旗・国歌法が、改正住民台帳法が成立した。やはり私には直接的な関係がなかった。
 着々と向かっている方向に一抹の不安を感じるのは私だけではないはずです。 今後はサマータイム制で国民生活を翻弄し、いずれ憲法第9条の廃止、 徴兵制の復活となり、大将になりたい政治家の時代後れの野望は続きます。
 人々の反対にも耳を貸さず放射能事故を恐れることなく、 ひたすら原子力発電を推進するのは、 原爆への転用に備えてのことのようにも思えます。

今はもう戦前なのかもしれないな   川柳/うなぎさん

 カエルを水に入れて水の温度を少しずつ上げてゆくと、 カエルはそれに気付かず、飛び出せないまま死んでしまうそうです。



1999.4  

丸山ワクチンへの中傷に対して

 がん患者の家族の方が多く投稿している
掲示板に、このようなことが書かれていました。 丸山ワクチンの投与を求めた家族に、ある医師が 「丸山ワクチンなんてオ○ム真○教みたいなものだ」と言って罵ったというのです。
 私は、副作用の全くない丸山ワクチンではなく、毒性の強い化学的抗がん剤こそ、 サリンをまき散らしたオ○ム真○教に例えるのにふさわしいと感じました。 抗がん剤のせいで、母の体が生きながらにしてドロドロに溶けていく姿を、 私は目のあたりにしました。 それにもかかわらず、 担当医は「がんの腫瘍マーカーの値が下がっています」と誇らしげに語っていました。 それから間もなく母は亡くなりました。 恐ろしい副作用を日常見慣れていて、患者の痛みが感じられなくなっている医師は、 オ○ムに洗脳されている信者と同じであるような気がしたのです。
 私は故丸山千里博士にお会いしたことはありませんが、 博士に接した人は異口同音に、 純朴で慈愛に満ちあふれた博士の人柄を語っています。 丸山博士を麻○彰○に例える人の人格が疑われます。 「副作用の強い薬ほど優れた薬である」という誤った教えを広めた本当の麻○彰○は、 一体どこにいるのでしょうか。

《 抗がん剤の恐怖 》
抗がん剤が血管の内側を傷つけ、がんの転移を促進する (1994年/大阪府立成人病センター発表)
抗がん剤を投与された患者が別の種類のがんになる確率は不使用者の2倍 (1995年/大阪大医学部発表)
抗がん剤「塩酸イリノテカン」の副作用で42人が死亡 (1997年/厚生省発表)



1999.3  

脳死移植で思ったこと

 荒野でうずくまっている瀕死の動物の上空を、ハゲワシが群れ飛ぶ恐ろしい光景。 こんな光景から、1999年2月の脳死移植の騒ぎは始まりました。
 私は、バラバラの部品の集合としてではなく、全体が一つに調和され、 宇宙の中で生かされている存在として、人体をとらえています。 したがって、 脳という一つの部品だけが活動を停止した脳死という状態を人の死とする考え方は、 私には受け入れ難いものがあります。
 しかし、現代医学で回復不可能とされる脳死に陥った人が、 自らの臓器を病に苦しむ人々に分け与えるという行為は、 究極の愛の姿といえます。 他を生かすために我が身を捧げる気高い思いを妨げるとしたら、 それはかえって大きな罪と言えるのではないでしょうか。 そして、それを支える医師の行為も、心が愛で満たされている限り、 宇宙の陰徳の法則にかなっていると言えるでしょう。
 肉体が正常に機能する内にドナーカードに書き記された意志に従って行われた 今回の脳死移植は、決して死体を切り刻まれたのではなく、 生きた我が身を捧げた真の愛の行為であったと私は考えるのです。
 真偽の程は定かではありませんが、脳死状態と診断された81歳の男性が、 奇跡的に回復して片言を話せるようになったことがあると新聞に書かれていました。 医学の発達によって、脳死からの回復が可能になる日まで、 愛と感謝に基づいた脳死移植は許されるべきでしょう。

 こんな物語を思い出します。 『幸福の王子』は自分の体の一部である宝石や金箔を、 貧しい人々にすべて与えてしまいました。 そして、それを手伝ったつばめは、南の国へ帰ることができず死んでしまい、 王子の鉛の心臓は音をたてて割れてしまいました。 ごみ捨て場に捨てられた王子の心臓とつばめの死体は、 天使に拾われ天国で永遠の命が与えられました。
オスカー・ワイルド作 『幸福の王子』



1999.2  

心の中のつぶやき

 私が尊敬するMさんのお話のひとコマで、印象に残った言葉をご紹介します。
問題は相手の責任
問題は見たくない
てっとり早くやり過ごそう


問題は自らの責任
問題を引き受けよう
事態からの呼びかけを聴こう
 左の3つは、私たちが無自覚のうちに、普段心の中でつぶやいている言葉です。 私は、特に3番目の「てっとり早くやり過ごそう」には、 その通りだと納得してしまいました。 「会議なんて時間の無駄だから、さっさと終らせるべきだ」といったような思いを、 私はいつも抱いていたからです。
 右の3つは、左のそれぞれに対する本来あるべき姿です。 無意識のうちにつぶやいている言葉を明るみに引き出して、 本来の言葉に置き換えてゆきたいと思いました。 「事態からの呼びかけを聴こう」と、 しっかりした基盤で物事をとらえていくことの大切さを思います。


BALCONY   ときめきのバルコニー