場所

◆福山市 東深津町 7丁目 12−28


◆ 「JR福山駅」から鉄道高架下を東に向かい、「辻の坂」交差点の信号機を左折。そのまま500メートルほどで着きます。


縁起阿弥陀如来像
 光明院の縁起についてはつまびらかではありませんが、室町時代、深津村字市場に無量寺という庵寺があり、それが起源といわれています。
 そして徳川の時代に入り、正保2年(1645年)当時の深津郡りに、藩主水野勝成が新田の造成を計画。俗にいうところの千間土手(せんげんどて)を作り堤防工事を始めました。
 正保4年(1647年)、勝成は新開地造成の潮止めのために千間堤の工事を始めましたが、これが難工事で、いくらやっても土手が崩れるため、半ばあきらめていました。
 そのようなとき、土地の庄屋が「この浜辺には塩崎大明神という小さな社があって、本地は不動尊だが霊験あらたかだからこれへ祈願してみてはどうか」と言うのです。そこで勝成は工事の関係者と一緒にこのお社に参拝祈願を行いました。
 すると、土手が閉まって壊れなくなったのです。塩崎神社は、そのお社として現在の社殿に建て直したといわれています。そして、深津村市場にあった無量寺の庵主に、その社務を行わせることになりました。
 10月、引野村梶嶋山から深津村王子山をつなぐ大潮止堤防が完成しました。「千間土手」といわれる大築堤防工事でした。
 時代は翌正保5年2月より慶安元年(1648年)と改称されます。
 勝成公は深津村の塩崎明神社へ社領として田地3反歩を寄進し、ついで深津村字市場の無量寺庵を再興して「遍照山光明院」と改称し、塩崎神社の別当寺としました。
 これが現在の光明院の始まりといわれています。
 現存する過去帳はその頃のものから保存されています。それ以前のものは虫に喰われボロボロで判明し難いものとなっています。
 本尊は上品上生阿弥陀如来像。元和2年4月俊澄上人が勧請されたといわれています。そのほか仏像として、弘法大師像(元禄7年)、不動明王像(元禄11年)、地蔵菩薩(元禄11年)、阿弥陀如来像(元禄11年)いずれも俊澄上人が勧請されています。

なお『水野記』『備陽六郡志』には次のような記述があります。

水野記 深津郡深津村 真言宗

無量寿山光明寺
本尊阿弥陀、鎮守荒神、古来寺領拾貫有之、毛利取放之
備陽六郡志 真言宗 遍照山 無量寺 光明院
開山時代共二不知
正保以前は九尺貳間の庵室なり。此所新涯なりて汐崎明神の別當に被仰付、宗休公御建立被成ける也。汐崎の祭禮九月廿八日なり
神輿を門内に昇いれ魚味を備ふ。仍之此日寺内の奴僕、魚鳥を喰する事を免す。
當寺中興五世惠光法印 始名快山 當國岩成村の産也。杉原の末葉にて杉原播摩守盛重の守本奪の千手觀音を持來し安置す。





高野山真言宗 遍照山 光明院ホームページへ