我楽多箱  2001

宗教戦争
お見事!
新鮮
差別の伝統
チャンス
時代の衝突

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2001.10  

宗教戦争

 靖国の特攻隊に涙を流した総理が、 イスラムの特攻隊に対して冷酷な態度であったのには、違和感を覚えました。 命を捨ててビルに激突した彼らは、殺人犯であるという意識はなく、 気持ちは純粋であったはずです。 イスラムの過酷な地で生まれ育った彼らには、 そうならざるを得なかった人生があったでしょう。 イスラムの地を蹂躙したと感じたアメリカに対する強い報復の気持ちを、 彼らは抱いていたはずです。
 アメリカの報復を強く支持する人々がいます。 しかし、その人々がもしイスラムの地に生を受けていたなら、 今とは逆にテロ犯人を賞賛していたに違いありません。 報復の思いは、立場が変われば、全く逆の攻撃性を引き出すだけなのです。
 この世において、恨みなき安らぎの境地に至る道を示せるのが真の宗教です。 ビンラディンの神、ブッシュの神、小泉の神は、 いずれも真の宗教の神とは言えないでしょう。



2001.6  

お見事!

 2005年日本国際博覧会(愛知万博)協会の最高顧問・堺屋太一氏が辞任しました。 この辞任騒動がテレビのワイドショーで取り上げられれば、 まだ愛知万博の知名度も上がったでしょうが、 ワイドショーに見向きもされないとは、先行き真っ暗状態です。
 堺屋氏はもともと就任を渋っていたものを、 無理やり口説き落とされて最高顧問になったということです。 失敗に終ったドイツ・ハノーバー万博の後の旧時代型万博の開催という、 誰がやってもうまくいく見込みがないものの尻拭いをさせられたわけです。 堺屋氏に責任転嫁し、ダメなら「お前のせいだ」と言いたかったのでしょう。
 理論的に不可能な計画の尻拭いを押し付けられた苦い経験が、私にもあります。 その時は、うまくいかないことを明らかにして、 結局「お前のせいだ」ということで終りました。 堺屋氏のとった責任転嫁に対する切り返しの技を先に学んでいたら、 私ももっとうまい対処ができたでしょう。
 堺屋氏の切り返し技をここにまとめておきます。 実現不可能な計画の実行を求められたときには、 遠慮なく実現不可能な要望(会場拡大)を提出することです。 こんな要望を出しても受け入れられないと明らかに分かっていても、 敢えて要望を出す必要があるのです。 それによって、自分に責任転嫁した相手に責任を返却することが可能になるわけです。 さすがに百戦錬磨の堺屋さん、お見事です。



2001.5  

新鮮

 小泉内閣が発足して驚異的な支持率を得ています。 前任者が最悪だっただけに、当たり前のことをしても新鮮に写ってしまうようです。 長い年月の間に腐り切った自民党は、21世紀には消滅するであろう、 と私は予測していました。 ところが、自民党の内にありながら自民党と闘う姿に、 社会の閉塞感を打ち破ってくれる期待が生まれました。
 闘う相手が腐敗した政治家とともに腐敗した官僚であることも好感が持たれます。 伏魔殿は外務省だけではないでしょう。 冷酷非道な厚生労働省の官僚が、己の怠慢と失態を顧みず、 ハンセン病訴訟に控訴を主張していたのに対して、 それを退けた態度は賞賛に値するでしょう。
 心優しい丸山博士が、横暴で傲慢な厚生省官僚に、 どんな辛酸をなめさせられてきたことでしょうか。 そして、20世紀の闇の中に葬り去られてしまった丸山ワクチン。 ハンセン病患者が生んだ赤ん坊をその場で殺すことが正当化された、 恐ろしい時代だったのです。
 危険な思想を内に秘めていることだけは心に留めて、 現総理を陰ながら応援したいと思います。

純ちゃんを信じたワイがアホやった (2004年の後悔の句)



2001.3  

差別の伝統

 大相撲春場所千秋楽の表彰式で知事賞を授与するのに、 大阪府の太田知事は、土俵に上がることを嫌悪されているようです。 神聖な土俵の上に、不浄な女性を上げることはできないということなのです。 女性の太田知事が土俵に上がらないようにと、 時津風理事長がはっきり申し入れたそうです。 現太田知事と元ノック知事とでは、どちらの方が汚らわしいのでしょうか。 太田知事は「私が知事の間は知事賞は出しません」とはっきり言ってやりなさいよ。
 女性が不浄であるとして排除する神様は、 どこかの元首相が語った封建時代の神の国を支配する神様なのでしょう。 そう言えば、封建時代に、女性が天皇になれないとも決められたようです。 封建時代からの差別の伝統を守っていこうとする神経には、あきれるばかりです。
 プロ野球では女性がマウンドの上で始球式をしたり、 プロレスではリングの上で若い女性が花束贈呈をしますが、 それによってどんな禍(わざわい)があったでしょうか。 守るべき伝統は良き伝統であって、悪しき伝統は改めるべきなのです。 人間を差別したり、文化遺産を破壊に仕向けたりする神様は、偽物に違いありません。



2001.2  

チャンス

 4月1日から家電リサイクル法が施行されます。 「家電リサイクル法施行前の今が買替えチャンス!」と書かれた 電器店のダイレクトメールが届きました。 人目もはばからず大胆なことを書いてくれるものです。 まだ使えても古い電気製品は、今のうちにさっさとゴミに出してしまいましょう、 ということらしいです。
 もちろん家電リサイクル法が施行されれば、 大型家電製品の売れ行きは悪くなり、個人消費を抑えることになるでしょう。 しかし物を大切にし末永く使うというのは、 21世紀のあるべき生活スタイルのはずです。 大量生産、大量消費で環境を破壊し続けてきた20世紀思想のあがきを、 このダイレクトメールから感じ取ることができるようです。
 人類の未来のために、 大量消費を前提として成り立つ社会構造を変える必要に迫られているようです。



2001.1  

時代の衝突

 20世紀に発生した資本主義経済。 それを正すべく発明された社会主義・共産主義。 理想とは裏腹に、一部の人間の欲望の隠れ簑と化した社会主義・共産主義は、 20世紀末にその大多数が崩壊することとなりました。 平等を追求したにもかかわらず、更なる不平等を生み出していたからなのです。 しかし社会主義の崩壊は、 資本主義が無上のものであることを証明しているわけではありません。
 資本主義の元で、人間の欲望は、金さえ払えば何をしてもよいという、 捩れたモラルを生み出しました。 地球環境を破壊した原動力は資本主義であったわけです。 人間の得た富の代償は環境破壊であり、多くの富を得た者ほど、 それに多く加担してきたとも言えるでしょう。
 資本主義の根底は競争原理です。 自由競争の根ざすところは、人よりも優位にありたいとする欲望です。 社会主義の失敗の要因は、その欲望に気付かなかったことにあります。 資本主義は欲望を肯定したところから始まり、 社会主義は欲望を無視したところから始まったということでしょう。 しかし競争原理は、 勝者と共に必ず敗者を生み出すという避けることのできない宿命をはらんでいます。 21世紀に私たちが目指すべきは、欲望に呑み込まれた資本主義でも、 そして欲望に目をつぶった社会主義・共産主義でもないはずです。 20世紀の常識の色眼鏡を通しては、21世紀は見えてこないでしょう。 まずは、混迷を生み出している内なる欲望の根元を見つめることから 始める必要があるのではないでしょうか。
 世界に今、新しい動きが見え始めています。 それはインターネット世界に起こった出来事です。 その1つの例は、Linux OS の登場です。 Linux は旧来の Unix という定評のあるOSをパソコン上で実現したものですが、 その制作過程はインターネット上において、すべての技術を公開し、 世界中の技術者が無償で開発に参画するというものです。
 ネット上にある0と1からなるデジタル情報は、 個人の所有物と考えることに無理があって、 知的所有権という考え方は適用しにくくなっています。 例えて言うならば、玄関先に現金や宝石類をたくさん並べておいて、 「盗むな」という立て札を立てているようなものです。 ただし、この現金や宝石類は、誰が持って行っても一向に減らないのです。 所有物がなければ経済という既成概念が成り立たないのです。 インターネットというバーチャル世界では、 これまでの資本主義経済という概念がそぐわなくなっています。 Linux は既成概念を超えた何か新しい方向性を示しているようです。
 「奪い合う時代から与え合う時代へ」。 これが21世紀のあるべき姿ではないでしょうか。 能力の高い人ほど多く奪い、世界一の金持ちになる時代から、 能力の高い人ほど多く与える時代へと転換していくべきでしょう。
 20世紀に引きずられる企業は、能力の低い人の賃金を下げ、 一部の能力の高い人だけの賃金を引き上げ、差別の助長を引き起こしています。 競争原理そのままに弱者を切り捨てるやり方は、 欲望に呑み込まれた経営者の人格の卑小さと冷酷さを露呈しています。 このように旧来の思想の抵抗は根強いものがあります。 これらの20世紀思想と21世紀思想は、真っ向から衝突することになるでしょう。 破滅へと向かう時代と再生へと向かう時代の衝突はまだ始まったばかりなのです。


BALCONY   ときめきのバルコニー