仏教と現代

観自在菩薩、
深い般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)を
行ずるの時、
五蘊(ごうん)みな
「空(くう)なり」
と照見して、
一切の苦厄を度す。
        (般若心経)

こちらも光明院檀家K.F.さんにご提供いただきました。妙見山からの夜明けの月でございます。

 お寺というのは、しぶとく男社会です。お坊さんの数も、男女比で言えば99対1以上じゃないでしょうか。国会議員のほうが、よっぽど女性の比率が高い。「僧侶=男」というイメージのせいか、逆に尼僧さんには個性的な人が多いのも確かですね。

 とはいえ日本では、大なり小なり、どこも男社会かもしれません。こんなこと言うと男衆は「何を言っているんだ、最近じゃ女性のほうが強い」とおっしゃるかもしれません。もちろん、そういった微笑ましい(?)家庭もあるでしょう。

 しかし例えば公的な統計ではどうなっているでしょうか。

 ドメスティック・バイオレンス(DV)という言葉がありますが、これは「配偶者や恋人からの暴力」のことです。最新の警察統計によると、DV被害での警察の対応件数は、女性=99.0%、男性=1.0%という割合です。暴力の被害にあっている人のほとんどが女性なんです。また経済的にも、勤め人の女性のお給料は、平均で男性の約半分。これではとても「女性のほうが強い」とは言えませんね。

 もちろん、女性がみんな強くなり、男性がみんな弱くなるのが望ましいなんて、思っちゃいません。

 私は「男らしさ」「女らしさ」に縛られるよりも、その人の「自分らしさ」を尊重することが大切だと思うわけです。

 DV加害者の男性は「男は男らしく」「女は女らしく」というレッテルを貼りたがる、という研究があります。自分は「男らしく」振る舞いたいと思い、妻には「女らしく」振る舞うことを期待する。そうした意識が強ければ強いほど、男性は暴力に訴えるようになるそうです。経済的な格差も、「男は仕事」「女は家庭」という、明治以降の家族政策に引きずられたレッテルが、社会に根強いから起こるのでしょう。

 そこには男性の側も女性の側も、素っぴんの「自分らしさ」とはズレた「男らしさ」「女らしさ」の役割を当てはめられることの矛盾があるんじゃないでしょうか。

 それに実際問題、男である私よりも体力があるとか足が速い女性は、大勢います。体力のある女性と私と2人いて、「男だから」って私に力仕事を回されても、私は困ってしまうんです。

 そんなとき私は「空なり!」と言いたくなります。

 ――観自在菩薩は、深い般若波羅蜜多(仏の智慧)を行ずる時、五蘊(この世のあらゆるもの)はみな「空なり!」と照見して(分かって)、一切の苦厄を度す(すべての苦しみから救われる)。

 ひろさちやさんは『ポケット般若心経』(講談社)で、「空」を「レッテルを貼るな」「貼られたレッテルをはがせ」と解釈しています。

 この世を「観自在する」(自在に観ずる=偏りなく見る)ことによって、「そうか、これは思い込みだったんだ」と気づくことが山ほどあります。そんなふうに思い込みに気づき、あるいはレッテルから解放されることで、私たちは苦しみから救われるのです。

 ご存知、釈迦如来や阿弥陀如来などの仏さんに男女の区別は在りません。この人たちに「男は男らしく」「女は女らしく」というレッテルは存在しないんです。そういうのを超越しているからです。

 私たちは「男らしさ」「女らしさ」に縛られることなく、他人からのレッテル貼りには「空なり!」と喝破して、「自分らしく」生きていけばいいと思います。般若心経もそういった生き方を応援しています。もちろん、自分で選んで「男らしく」「女らしく」生きることはかまわないでしょう。でもそれを他人に押し付けてはいけないと思います。

 考えてみれば、生まれる前に「よ〜し今回は女に生まれよう」「私は男に生まれようかしら」と思って生まれてくるわけじゃないですもんね。たまたま男だったり、たまたま女だったりするわけです。だから、そのことには責任持ちようがないですよね。その人に責任のないことを、他人が押し付けることはできません。


   2003年9月21日 坂田 光永


※ ひろさちや『ポケット般若心経』(講談社)は今年出た本です。付録CDにはなんと、昨年の高野山専修学院の修行僧(坂田光永含む!)の般若心経が録音されています。ぜひお聞きください♪

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○ 2003年8月21日「それ仏法 遙かにあらず … 」



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