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釈 尊 フ ァ イ ブ の
第24話「奈良の大仏」 −聖武天皇・光明皇后・行基−
マイケル さて、問題です。奈良の大仏は、だれが造ったでしょう?
ジャネット そりゃ、聖武天皇よ。
マイケル ブーッ! 労働者でしたー!
ジャネット なによその問題。そんなの分かってるわよ。
マイケル ちなみに、260万人が作業に従事したらしいよ。お金は今でいうと、4600億円もかかってるって!
ジャネット そんなに!? まぁ、それだけの巨大事業ってことね。きっと聖武天皇は、国の乱れを仏教の力で治めようとしたのよ。
マイケル でも、これって、いわゆる無駄な公共事業ってやつじゃない?
ジャネット そうとは言えないでしょ。260万人ぶんの仕事を与えたのなら、意味があるんじゃない?
マイケル 俺だったら、そんなことにお金使うより、税金を安くするね。やっぱ減税だよ! そして、奈良県と奈良市を廃止して、「奈良都」をつくる! これぞ奈良維新!
ジャネット えっらい飛躍してますけど…。当時はほんとに都(みやこ)だったんだから、いいんじゃないの?
マイケル それにしても、聖武天皇の願いは、かなったのかな?
ジャネット それが、そうもいかなかったらしいのよ。大仏の建造費がひびいて国の財政は破綻。そのせいで飢餓が増えたり、戦乱がおきたりしたらしい。
マイケル やっぱり。国民の生活が第一! どげんかせんといかん!
ジャネット なんか、今日はやたらと政治的ね。私はね、掛け声ばかりの政治家よりも、行基みたいな、民衆のために地道に尽力する人のほうが好きよ。
マイケル そりゃ、俺もそうだよ。よし、俺も行基みたいに、民衆のために頑張るぞ! これは俺のマニフェストである!
ジャネット あんた、ほんとにできるわけ?
マイケル え? できるわけないじゃん。マニフェストって所詮そんなもんでしょ。
ジャネット こら! …と、あんたを責められるようなご時世でもないか。
日本仏教の基礎を築いたのが聖徳太子なら、その上に骨組みを建てたのは奈良時代の3人、聖武天皇、光明皇后、そして行基ということになるでしょう。
まずは聖武天皇。7歳で父親の文武天皇が亡くなり、母の宮子も精神不安定だったようで、聖武天皇も心身ともに虚弱だったようです。24歳の即位後も、長屋王の変や藤原広嗣の乱、さらには天変地異や天然痘の流行などが相次ぎ、きわめて不安定な時世でした。
そんな状態なので、聖武天皇は仏教にすがり、天平13年(741年)に全国に「国分寺」建立の詔を、天平15年(743年)には「東大寺盧舎那仏像」の建立の詔を出します。その一方で、次々と都をうつし、うつしては戻す、を繰り返しました。聖武天皇の仏教への心酔が混乱の原因となり、その混乱に聖武天皇が不安を覚えてさらにどっぷりと仏教にはまり込んでいく、という悪循環の中、ついには勝手に出家をしてしまうなどの事件も起きました。
そんな中、ついに天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)、5年の歳月をかけて大仏が完成し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那(ぼだいぜんな)が導師となって大々的な大仏開眼法要が行われました。
大仏鋳造が終わると、今度は大仏殿の建設工事が始められ、天平宝字2年(758年)に竣工。東大寺は、聖武天皇が全国に作らせた国分寺を取りまとめる「総国分寺」という位置づけになりました。ちなみに東大寺は華厳宗の本山でもあり、盧舎那仏(るしゃなぶつ)というのは華厳経の教主「ビルシャナ如来」のことです。
聖武天皇の妻が光明皇后です。藤原氏出身の光明皇后はやはり仏教に深く帰依しており、夫の聖武天皇に国分寺や東大寺の建立を進言したのは光明皇后だとも言われています。また、自分の住まい(現在の法華寺)でハンセン病者の施湯を行い、「重病患者の膿を吸い出したら阿しゅく如来になった」という伝説も残しています(仏教と現代「千人の垢を流して見えるもの」参照)。鎌倉時代の真言律宗僧侶である叡尊や忍性の社会活動は、光明皇后をモデルにしているとも言われています。
そして、大仏建立に欠かせないのが、行基です。行基は、仏教を一般民衆に布教するのを禁じた朝廷に逆らって、身分を問わず布教を行い、また灌漑整備などの社会活動によって民衆に篤く支持された僧侶でした。朝廷は行基の影響力を恐れて何度も弾圧を行いますが、社会の混乱はひどくなる一方だったので、行基の存在感はますます高まっていきました。
そこで朝廷は、大仏造立事業を成功させるために、天平12年(740年)、行基に協力を求めることにしました。寄進を集めることを勧進(かんじん)といいますが、行基の勧進によって多額のお金や銅などの材料が集まったといわれています。大仏造営中の天平21年(749年)に亡くなり、死後も「行基菩薩」と慕われています。
さて、この大仏造立と大仏殿建立は、マイケルが指摘するように、無駄な公共事業だったのでしょうか? たしかに実際に国費を浪費させ、貧富の格差を広げたことで、すでに当時から強く非難されていました。農民の負担は激増、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令国家を崩壊寸前に追い込んだといわれています。
しかし、逆の指摘もあります。災害や疫病、飢饉のために悪化した経済状況を、大仏造立という大事業で救おうとしたのだ、という説です。いわばケインズ主義です。さらに、日本の国際的地位の向上のために国の威信をかけておこなわれた、現代でいうオリンピックのような事業だったという見方も出てきています。その証拠に、大仏開眼供養には中国・朝鮮半島・ベトナムなどから来賓が招かれ、華々しく行われました。大仏建立事業とともに、シルクロードの終着点である平城京は国際都市として栄え、聖武天皇の数々の遺品は東大寺の境内に建てられた正倉院に収められました。
今では、大仏といえば奈良、奈良といえば大仏、というぐらいに知られる観光名所。正倉院の収蔵品も、観光や研究に役立てられています。きっと大仏造立費用の元は取れているかも?なんて思うと、何が無駄で、何が無駄でないか、その判断は難しいところです。
2012年9月21日 坂田光永