ありがたや行くもかえるもとどまるも
われは大師と二人づれなり
   (同行二人御詠歌)

仏教と現代

この写真もK.F.さんが提供してくださいました。西国観音霊場を巡礼中のお写真です。

 ――法律や医療の専門家でもありません。カウンセラーでもありません。何のたしにもなりませんよ。そう言っても、「いいんです、いっしょに来ていただけるだけで安心なんです」とおっしゃる。それなら…と言って、同行支援をさせてもらいました。

 ドメスティック・バイオレンス(DV)の被害に遭った方の支援活動をしている私の知人は、そんな話をしていました。DV被害者のように傷ついて弱ってしまった当事者には、他人にはぴんと来ないしんどさが、かなりあるそうです。離婚調停、婚姻費用分担、養育費、子どもの学校や保育所の手続き、年金の確保、仕事探し、家探し… 確かにこれはしんどいかもしれない。

 一方、困っている人を見て、あれやこれやとアドバイスする人は多くいます。アドバイスが高じたのか「あんたにも責任がある」「もっとうまくやらないからよ」と非難され、あげくに「頑張って」という言葉が追い討ちをかける。もうさんざん、頑張ったのに。言った本人は助けたつもりかもしれませんが、そんな口だけの善意より「ただ、いっしょにいる」ということのほうが、ほんとの支援になることも、けっこうあります。

 ところで今、四国遍路が再び注目を集めています。

 なかでも独り歩き遍路が激増しているそうです。若い人が多いのも意外です。口だけの善意があふれた世間を離れ、ただ黙々と歩く。お遍路さんの片手には「同行二人」と書いた杖が握られています。

 冒頭の「ありがたや― 」という御詠歌にもあるように、独り遍路も実は弘法大師と二人づれなんです。「道が違うぞ」「もっと速く歩け」なんて、大師は口うるさく言いません。「ただ、いっしょにいる」というのが、大師の同行二人の精神です。遍路の不思議な心強さの理由は、ここにあるのでしょう。

 「同行支援(どうこうしえん)」と、「同行二人(どうぎょうににん)」。

 読み方は違いますが、同行二人は、大師による元祖・同行支援といえるかもしれません。


   2003年10月21日 坂田 光永


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