法話集
心の師
(一)
ふくらみて梅の莟(つぼみ)の言ふとせぬくれなゐはあれ冴え返る朝
早朝ウォーキングのために家を出ます。白っぽい早春の光が流れて、枕草子の「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく、紫だちたる雲の………」の冒頭の一句が口をついて出て参ります。
大地の奥深くで息をこらし待ち続けていた春のいのちが、光の呼びかけに応じて、ほとばしるように根を張り、幹を走り、枝を走っていっております。耳をすましますと、そのわきあがる歓声がきこえるようです。
春のいのちはまず梅の枝に姿をあらわし、一輪、一輪とわずかずつ花をつけてゆき、コブシ、ケヤキ、クヌギといった木々の芽をふくらませております。
梅の花で思うのは、
「不見西湖林処士(みずやせいこりんしょし)、
一生受用只梅花(いっしょうじゅようただばいか)」
と賞嘆される、中国北宋の詩人林和靖(りんなせい)です。彼は梅を妻とし、鶴を子として生涯を終ったといわれています。
芭蕉の句に「梅白しきのふや鶴をぬすまれし」と吟じたのがありますが、林和靖の故事を念頭においての事であります。
水辺に、青い竹林か何かを背景にして、白梅の匂っている眺めは東洋の詩の味(あじわ)いであります。
梅の頃に雪が降って、その白い雪の中に花がいじけてよごれたように見えた寒さも忘れられません。梅は清高の隱士です。昼夜をわかたず仏音を流しております。
(二)
雑阿含経(ぞうあごんきょう)の中に、譬(たと)えをあげて言っております。或る人の所に召使がおりました。すべてする事が満足できて、何一つ欠ける所がありませんでした。だから主人はひたすらこの召使を頼りに思って、朝夕かわいがり面倒を見ました。
彼が好み望むことは、着るもの、食べものを始めとして、ちょっとしたつまらない遊びに至るまで、すべて叶(かな)えました。乏(とぼ)しい思いをさせまいと、一生懸命にすることよりほかありませんでした。
こんなによくしたのに、この召使は、長年の敵が謀(はか)って付けた者だったので、どうして、主人の厚い志を感謝しましょうか。隙(ひま)を見て、すぐに主人を殺して、立ち去って行きました。
この召使というのは自分の身であります。主人というのは心であります。心が愚かですから、仇敵(あだかたき)である身を知らないで、前世での善根によって得た命をうしない、悪道に堕ちるのであります。
釈尊の教えられた「心の師とは成るとも、心を師とすることなかれ」とはこのことを言ったものでありましょう。
もう一つ別の生き方を夢としてあらあらかしこふうせんかづら
夜の風に凛々として匂ひくる逢ふには遠い白梅の声
南無大師遍照金剛 合 掌
この法話は、光明院発行『遍照』(2004年1月発行号)に掲載されています。
《過去掲載分》
○ 2003年10月21日「百日紅の花」
○ 2003年8月21日「露団団」