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釈 尊 フ ァ イ ブ の
第7話「ブッダになるには?」 −釈尊の生き方(3)修行と悟り−
ジャネット ちょっと、起きなさい! いつまで寝てんのよ!
マイケル ふぇ〜っ、もうちょっと…。あと5秒…。
ジャネット たった5秒でアンタに何ができるのよ! ほら、遅れるわよ!
マイケル もー、あとちょっとで夢がいい展開になったのに…。
ジャネット どうせバカな夢でも見てたんじゃないの?
マイケル バカな夢とは失礼な! 菩提樹の下で瞑想してたら、もう少しで悟りが得られそうだったんだよ! あ〜あ、ブッダ目前だったのになぁ〜。
ジャネット 言っておくけど、アンタみたいな人は、ブッダになんかなれないわよ。
マイケル なんでさ?
ジャネット ブッダってのは「目覚めた人」って意味でしょ? ちゃんと目覚められないようなアンタには、ブッダになれないの! その点、私は毎朝ブッダになってるわ。
マイケル はぁ〜?
「私は毎朝ブッダになる」とは、インド人のよくあるジョークだそうです。確かにブッダとは「目覚めた人」という意味なので、間違いではありません。
それにしても、私たちはどうすれば、ブッダ(=真理に目覚めた人)になることができるのでしょうか?
若き釈尊、ガウタマ・シッダールタも苦悩の末、29歳のとき真理を求めて出家をしました。いや、とにかく日常の暮らしが嫌になって、がむしゃらに家を出たのかもしれません。
そして修行生活に入ります。著名なバラモンに指導を受けたりしながらの苦行です。直立不動で何日も過したり、糞尿を口にしたり、中には苦行というより自傷行為に近いものまでありました。また、苦行の結果、死に至ったとしても、それは最高の栄誉とされていました。インドに行くと今でも、片足を上げっぱなしで生活するなど、観光客向けに一種のパフォーマンスとして修行をしている人たちがいるそうです。それとは比べ物にならないすさまじい苦行を、釈尊はおよそ7年間も行ったのです。
それで釈尊は悟りを得られたのでしょうか? そうではありませんでした。
釈尊は、苦行によって肉体が痛めつけられようと苦悩そのものは解決しない、極端な方法で悟りは得られない、という結論に至ります。そして苦行をやめ、ふらふらと歩き始めました。
このとき、スジャータという人物(女性?)から、ミルクがゆをもらいました。苦行で疲弊した体が、みるみるよみがえってきます。釈尊はそのまま、菩提樹の下で静かに呼吸をしながら、瞑想に入ったのでした。
瞑想状態の中、釈尊は一つの真理に気が付きます。それは、この世のあらゆる事柄がすべて相互につながっている、という真理でした。誰かにとっての楽が、誰かにとっての苦であるように、楽も苦も実は複雑に絡み合っているのだ。そしてどんな苦しみにも原因があり、その原因にもまた別の原因があるのだ。静かに瞑想をする釈尊の目前に、そんなこの世のあらゆる「つながり」があらわになってきます。
釈尊、35歳。彼はブッダとなったのでした。
さて、ここで一つ大きな問題があります。釈尊の苦行は無意味だったか、という問題です。
釈尊自身、苦行は無意味だったと言っているのですから、それで間違いはないかもしれません。しかし見方によっては、想像を絶する苦行を体験したからこそ、その無意味さも分かるわけです。苦行をしていない私たちに、釈尊と同じ境地は体験できないかもしれない… そんな気もしてしまいます。
この結論は安易に出すことができません。しかし考えてみれば、あえてわざわざバラモン的な苦行をしなくても、一所懸命生きようとする人にとって世の中はそれなりに「苦行」です。現実社会と格闘しながら、ときに立ち止まって自分を見つめ直す。行ったり来たり、その繰り返しの中で、らせん階段上に人間は成長していくんでしょうね。
2004年10月21日 坂田光永