★仏教・密教が500倍わかる★
釈 尊 フ ァ イ ブ の
第10話「正しいって何?」 −釈尊の教え(2)無着・正見−
ジャネット 今、正しい時間がわかる?
マイケル えっと、朝の6時ちょうど。
ジャネット えぇっ?? うそでしょ?
マイケル 俺の時計では朝の6時なんだよ。ちゃんと見ろよ、ほら。
ジャネット 何よこの時計。電波時計? …ほんとだ、朝6時になってる。でも、私たちさっき昼ごはんを食べたばっかりじゃない。そんなはずないわ。
マイケル 電波時計が時間を間違えるかよ。いくらで買ったと思ってるんだ! 電波時計が朝6時ってなってるなら、朝6時なんだ。俺たちが昼ごはんのタイミングを間違えたんだってことだよ。
ジャネット はぁ? でも、お日様もガンガン照ってるわよ。お昼に決まってるじゃない! 電波時計なんて、あてにならないわ。いくら時計を正しく見れても、時計がおかしいんじゃ、仕方ないわね。
マイケル そんな! じゃ電波が間違ってるってこと? グリニッジが間違ってるってこと?
ジャネット んも〜、電波時計だから正しいなんて、思い込みよ! …あ、よく見ると、西暦も「2075年」になってるわよ。ははっ、ありえなくない?
マイケル う〜。電波時計がそう言うなら、今は2075年なんだよ、きっと…(-д-;)
世の中は「苦」に満ちている、というのが釈尊の世界観でした。そして、仏教はその「苦」を無くすのが目的ではない、ということも述べました。じゃ何が仏教の目的なのかというと、「苦」をありのままに認めること、そして「苦」を取り除くための実践をしていくこと、なのです。
その実践法が、これから解説する「八正道」です。八正道を辞書的に説明すると、こういうことになります。
要するに「正しいことをやれ」ってことなんですが、それじゃ今度は「何が正しいの??」という話になっちゃいますね。釈尊が考える「正しい」って何でしょうか。
たとえば、「信号を守る」とか「廊下を走らない」ということが、正しいことなのでしょうか。もし横断歩道上で、廊下で、すぐに行って助けてあげなければならない人がいるとすれば、あなたは信号を守りますか? 廊下を走りませんか? 仏教はそんな程度の規則や道徳とは違います。
そもそも「正しい」という訳語がビミョーなのかもしれません。
「正見」はインドの言葉で「サンマーディッティ」と言いますが、そのニュアンスは「正しく見る」というよりも、むしろ「あまねく見る」「総合的に見る」といった感じです。「正命」「正定」など、他の「正」も同じニュアンスです(ちなみに八正道の中でいちばん重要なのは「正見」で、正見以外の七つは正見をさらに細分化したものに過ぎません。だから、八つとも覚えようとせずに、正見だけ実践すればいいと思います)。
「正見」について、もう少し突っ込んで考えてみましょう。ポイントは、「あまねく見る」ためにどういう心持ちが必要なのか、ということです。
仏教の言葉で、思い込みや執着が無いことを「無着」(むじゃく)と言います。何かに執着せずに、何事からも等距離に立って、無着の心で物事を見る。これが「正見」です。具体的な出来事一つ一つに「これは正しい」「これは間違っている」とは言えません。そのつど、「無着」の心で「正見」していくしかありません。
マイケルのように、思い込みを持ったままいくら物事を見ても、「正見」をしたことにはなりません。
2005年5月21日 坂田光永