★仏教・密教が500倍わかる★
釈 尊 フ ァ イ ブ の
お説教は言わないで

「釈尊ファイブ」が贈るキテレツ仏教・密教解説。限定25歳未満! 25歳以上の方には刺激が強すぎる恐れがあります…

第11話「つながりを知る」 −釈尊の教え(3)縁起−

ジャネット ねえ知ってた? 江戸時代に出てくる人物で、名字が「松平」の人は、たいがい徳川将軍家の親戚なんだって。
マイケル へー、そうなんだ。誰がいるかな。松平定信、松平慶永、あと… 松平健!
ジャネット 違うでしょっ! 松平健は現代の人よっ!
マイケル でも徳川吉宗なんだろ? …あ、それだと徳川の「親戚」じゃなくて、本人だな。
ジャネット あれは時代劇だから。わかってると思うけど、マッタク…。
マイケル それにしても「暴れん坊将軍」って、おかしな話だよな。
ジャネット なんでよ?
マイケル だってさ、今だったら総理大臣の顔なんて、みんな知ってるじゃんか。それがさ、町にもぐりこんで「旗本浪人、徳田新之助だ」って言ったら、こいつ頭おかしくなったのかって思われるよ。
ジャネット まぁ、当時はテレビがないからねぇ。今だったら、確かに「何言ってんの?」ってなるわよね。
マイケル そうそう、「はぁ? 新之助? おまえは『クレヨンしんちゃん』か」って思われるもんな。
ジャネット そっちかい!


 TVドラマ「暴れん坊将軍」で松平健が演じる浪人「新之助」は、必ず最後に「余の顔、見忘れたか!」という決め台詞で「征夷大将軍」に戻ります。武家社会というのは肩書きがものをいう世界。さっきまで剣を交えていた敵側も、一瞬ひるんでしまいます。

 しかし、敵側が「余の顔? うーん、誰??」と言えば、松平健は困ってしまいます。あくまで浪人として認識されるのみで、これでは「暴れん坊将軍」ではなく、ただの「暴れん坊」ですね。

 想像してみてください。もし新之助が、ある日、誰からも将軍として認識してもらえなくなったら… 本人がいくら「余の顔、見覚えないの!?」と叫んでも、ただの戯言として聞き流されてしまうとしたら…。彼はその日から、浪人「新之助」として生きていくしかなくなります。

 何が言いたいかというと、わたしたち人間は、実は他者との関係でしか存在を証明できない、ということです。

 人間だけではありません。世の中のあらゆるものが、他者との関係性の上に成り立っています。一本の棒も、体を支えれば「杖」ですし、人を殴れば「武器」ですし、ボールをたたけば「バット」です。同じ一本の棒ですよ、おかしな話じゃありませんか?

 さらには、物だけではありません。例えば笑顔。私があなたに向けた笑顔は、見た目は同じ笑顔でも、受け止め次第でまったく別の意味になります。嘲笑、苦笑、慈しみの笑み… 私の笑顔の意味を決めるのは、あなたの受け止め方次第なのです。

 新之助は、さらに別の誰かの存在を証明する側にまわることもあります。棒が武器となって、誰かを怪我させてしまうこともあるでしょう。私の笑顔があなたの心に何かを生じさせ、あなたの次の行動が変わるかもしれません。世の中のあらゆるものが、「」となって他者を生じさせ(「」)、それがさらに別のものにとっての「」となる。この結びつきを「」と言います。世の中のあらゆるものが、→()→→()→… の鎖で複雑に絡まりあっているのです。

 この絡まりあいのシステムのことを「縁起」と言います。サンスクリット語の「プラティートヤ・サムットパーダ」を漢字に表した言葉です。

 縁起がいいとか、縁起をかつぐ、という言い方は、実は後に意味が変化したものです。もともと縁起というのは、「世の中のあらゆる物事を成り立たせる、複雑に絡まりあった因果関係」を指します。

 原始経典に「縁起を見る者は、法を見る。法を見る者は縁起を見る」とあります。つまり、仏教の根本原理は、縁起なのです。仏教とは縁起なのです。縁起を知れば、仏教を知ることになります。釈尊はこの縁起のありようを、自在に見極め、実践に生かすことのできた人なのです。

 釈尊が菩提樹の下で瞑想をしたとき、釈尊にはもはや何のこだわりもありませんでした。そんな透きとおった眼で「正見」することで、釈尊は「世の中のあらゆる物事はつながっているのだ」と悟りました。以来、釈尊は、あらゆる苦しみも悲しみも、縁起によって成り立っているのだから、苦しみそのもの、悲しみそのものにとらわれることなく、他との関係性(つながり)を見ていこう、と説き続けました。

 そして、世の中はすべてつながっていると実感できた瞬間、自分も世の中すべてのつながりの中にいることを知るのです。そこから発見された仏教的生き方が、「中道」なのです。

2006年11月21日 坂田光永


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