★仏教・密教が500倍わかる★
釈 尊 フ ァ イ ブ の
お説教は言わないで

「釈尊ファイブ」が贈るキテレツ仏教・密教解説。限定25歳未満! 25歳以上の方には刺激が強すぎる恐れがあります…

第13話「死んでおシャカになりました」 −釈尊の教えを誤解して−

ジャネット あ〜、買ったばかりの携帯電話、トイレに落としちゃった…。
マイケル 気をつけなよ。水につけたら「おシャカ」になっちゃうから。
ジャネット …おシャカって、壊れたって意味? それじゃお釈迦様に悪いんじゃない?
マイケル おシャカになるって、壊れるとか、死ぬって意味じゃないの? じゃぁ「おダブツ」って言ったらいいのか?
ジャネット それも阿弥陀仏ってことだから、死ぬってのとは違うんじゃないの?
マイケル いいじゃないか。そもそも仏教は死んだ後の世界のことが専門なんだから。「成仏」だって「往生」だって、結局は死ぬことだろ?
ジャネット そうじゃないわよ。成仏ってのは悟ってブッダに成ったってことで、往生ってのは悟りの世界へ行くってことなの。死ぬこととは限らないわ。
マイケル ほえ〜、そうなんだ。よく知ってるねぇ。もしかして、あんた、悟った? ひょっとして「おシャカ」になったとか? そろそろ「おダブツ」するんじゃない?
ジャネット …なんかムカツクわね、その言い方! あんたを「極楽浄土」に送り届けてあげるわっ! 覚悟しなさい!
マイケル お、落ち着けって。やれやれ。まったく「往生」しまっせ!


 仏教の教えというと、どこか非合理的な印象を持っている人が多いと思います。しかし、これまでご覧いただいたように、釈尊の教えは、実はとても合理的なものなのです。

 キーワードで振り返ると、こういうことになります。

 私たちが悩み苦しんでいるときは、まず苦をありのままに認めることから始まります(苦・集・滅・道)。そのために、思い込みやこだわりを捨て(無着)、透き通った目で、あまねく見ましょう(正見)。すると、物事はすべてつながっているということが見て取れるはず(縁起)。そのつながりが見えると、おのずと極端を避けて(中道)、ちょうどよい加減の生き方ができるでしょう(足るを知る)。

 しかし、仏教と普段から接している人は、次のような疑問が沸き起こります。

 死後の世界のことは、ぜんぜん触れられていないではないか。お葬式・法事と仏教とは、いったいどんな接点があるのだろうか?

 あるいは、輪廻転生は出てこないのか? 釈尊以外の仏様は、どこに出てくるのか?

 そうなんです。実はそれらは、釈尊の死後、あとづけで追加されていった考え方なのです。むしろ、後の弟子たちが、釈尊の教えを誤解したと言っても、言い過ぎではないかもしれません。それらを、以下に整理しておきたいと思います。


(1)釈尊は死後の世界について言及していない

 ある弟子は、死後の世界について、釈尊にしつこく聞いていました。そこで釈尊は弟子にこう言いました。ある青年が毒矢に刺されたとしよう。急いで医者を呼ばねばならない。しかしその青年は言った。「この毒矢を射たのは、どこのどいつだ? この矢の材質は? 毒の種類は? それらが分かるまで医者を呼ぶな」。そしてこの青年は死んだ。死後の世界について知りたがるのは、これと同じことである。…釈尊は、死後の世界について聞かれたら、在る、とも、無い、とも言わず、「無回答」を貫いていたようです。「分からないことにあれこれとらわれるより、今できることをやりなさい」。これが釈尊の教えだったのです。


(2)釈尊は自分の遺骨を拝むなと言った

 「第8話」でも書きましたが、釈尊が弟子に「遺骨を拝むな」と言い残したにもかかわらず、弟子は仏舎利(釈尊の骨)を崇拝して塔を建てました。釈尊の死とともに、釈尊の教えに誤解が生まれ、「葬式仏教」が誕生したと言ってもいいでしょう。


(3)釈尊は輪廻転生を是としなかった

 輪廻転生という言葉を知っている人は多いと思います。多くの人は、これが仏教用語だと思っているかもしれません。しかし違います。もともとはインド古来の考え方です。肉体が滅びても、魂はまた生まれ変わる、というのは、インドのバラモン教が本家本元であり、釈尊はバラモン教を克服しようとしていたのであって、当然、輪廻転生の思想も、受け入れるのではなく、克服すべき対象になります。これについては、別項を立ててじっくり検討したいと思います。


(4)釈尊以外の仏は想像の産物である

 阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、観音菩薩、地蔵菩薩、あるいは不動明王など、釈尊(釈迦如来)以外にもたくさん仏様がいます。「過去七仏」が釈尊に悟りを与えたとか、いろんな説があるのですが、歴史上は釈尊以外にブッダがいるとは言えません。はっきり言うと、もののたとえとして、想像の産物として現れた仏様たちなのです。


 こうなると、今まで信じてきたものは、ほとんど釈尊の教えじゃないのか、ということになってしまうかもしれません。しかし、歴史を経て、インドから中国、日本へと仏教が伝わり、また日本で独自に発展を遂げることで、仏教が今の姿になってきたのです。それらを一概に否定しても始まらないかもしれません。

 では、次からは、これらの考え方がどのように仏教の教えになっていったのかを、見ていくことにしましょう。

2006年12月21日 坂田光永


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