★仏教・密教が500倍わかる★
釈 尊 フ ァ イ ブ の
第14話「あなたはどっち派?」 −初期仏教と根本分裂−
マイケル ねぇ、風呂のときにさ、手から洗う派? それとも足から洗う派?
ジャネット そうねぇ、私は首からかな。
マイケル ぇえぇっ! 首から!? なんてこった!
ジャネット なんでそんなに食いついてんのよ。
マイケル じゃぁさ! アイスクリームは、上から食べてく派? それとも横から食べてく派?
ジャネット それもどっちでもないわね。私は周りから中心に向かって食べるの。ほら、周りってちょっと溶けつつあるじゃない? その溶け具合がいいのよ。
マイケル ま、まぢで! 予想外だ! ならば、であるならば、コーヒーは砂糖・ミルクを入れる派? それともブラック派?
ジャネット あの〜、どっちでもいいと思うんだけど、私はミルクだけ入れて、砂糖は入れないのが好きかな。
マイケル はぁ、ミルクだけ!? そんなことがあっていいのかぁー!!
ジャネット えっらいリアクションやね。じゃ、私からも聞くわよ。別れた恋人の写真は、捨てる派? とっとく派?
マイケル …いや、別にどうでもいいし、そんなこと。
ジャネット 何よ、急に大人しくなって。ほら、言いなさいよ。
マイケル そういうの興味ないんだ。そもそも派閥に分けるなんてくだらないね。みんな仲良くやろうよ。
ジャネット さっきは散々騒いでたクセに! …あっ、そっか、そういうことね。「恋人いない歴二十うん年」!
マイケル 俺、「恋人つくらない派」なんだよ。
ジャネット ぶっ(笑)。「できない派」でしょ?
マイケル うるせー! 「おまえ倒す派」!
初期仏教 | 前383年(前480年?) 釈尊入滅 |
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↓ | ||
複数のサンガの形成 |
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↓ | ||
前3世紀ごろ 根本分裂 |
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部派仏教 | ↓ | ↓ |
大衆部 |
上座部 |
釈尊の死去を「入滅」あるいは「仏滅」と言います。釈尊入滅は紀元前383年といわれていますが、前480年ごろという説もあり、定かではありません。
釈尊が死去してしばらくは、釈尊の教えが忠実に伝わっていたということで、釈尊の生前も含めて「初期仏教」(原始仏教)という呼び名がつけられています。
ただし、釈尊自身は教えを文字で残していません。インドの古来からのやり方にならい、初めは暗唱による口伝えで教えが伝わっていました。しかし、それでは正確に伝わらないということで、僧侶が集まって確認をするという「結集」(けつじゅう)が行われました。
最初の結集は、釈尊入滅後に行われています。王舎城(ラージャグリハ)郊外に500人の僧侶たちが集まり、釈尊の弟子のマハーカーシャパが座長、アーナンダとウパーリが、それぞれ経(釈尊の教え)と律(戒律)の編集を担当したそうです。このときのものかどうかは定かではありませんが、初期仏教の経典としては、『スッタニパータ』(中村元訳『ブッダのことば』)が知られています。
その後も何度が結集が行われていますが、次第に経・律には様々な解釈(論)が生まれてきます。そして、徐々に考え方の違ういくつかのグループが発生してきます。
一般的に言われているのは、戒律を巡る意見の違いです。生前、釈尊は僧侶集団(サンガ)が大きくなるにつれ、必要に応じてルール(戒律)を整備していきました。そのルールを厳守する派と、改変してもよいとする派とが現れるようになったのです。
また、仏教が各地に広まっていくと、地域ごとにサンガができるようになります。すると当然、地域ごとの特色が出てくるわけです。教えの統一はもはや困難な状況でした。
そして、ついに釈迦入滅から約100年後(あるいは約200年後)、何度目かの結集の際、仏教教団は保守派の「上座部」(テーラワーダ)と革新派の「大衆部」(だいしゅぶ、マハーサンギカ)と、大きく2つに分裂しました。これを「根本分裂」といいます。
根本分裂の原因についても様々な説がありますが、その1つが、お金をめぐる対立です。僧が托鉢(たくはつ)に出た際に、食事だけでなく金銭を布施されることもあり、これを認めるかどうかで意見が分かれました。金銭を認める派が大衆部となり、それを認めない派は、長老の僧が多かったので上座部と呼ばれるようになったといいます。
根本分裂によって2つに大きく分かれた仏教教団は、以後も分派が繰り返されました。結局、上座部系11部派と大衆部系9部派の、いわゆる「小乗20部」が成立しました。この20部派と、これらの部派が伝えた経・律・論の教えが「部派仏教」と言われます。中でも、西北インドの上座部系「説一切有部」(せついっさいうぶ)が有名です。
ただし、しつこいようですが、これらはあくまで言い伝えによるものです。この時代にすでに上座部、大衆部などの名前があったとは限りません。実際は、大きな2派に分裂したというよりも、後世の弟子たちがこの時代を振り返って、部派対立の起源をこの時代に求めたのではないかと思われます。
ちなみに、この頃の僧は「比丘」(びく)、「比丘尼」(びくに)と呼ばれていました。比丘は男性、比丘尼は女性で、もともとは「乞食」という意味の言葉だとか。食事を得るために托鉢に回り、糞掃衣(ふんぞうえ)と呼ばれるほどの質素な衣をまとい、信者の布施によって支えられていた僧侶たち。部派対立があったとはいえ、釈尊の遺風が消えたわけではなかったようです。
2007年1月21日 坂田光永