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釈 尊 フ ァ イ ブ の
第15話「無常が“有る”?」 −説一切有部−
マイケル さて問題です。「私は嘘つきである」と言った人がいます。この人は本当に嘘つきでしょうか?
ジャネット そりゃ、嘘つきだって自分で言ってるんだから、嘘つきなんじゃないの? …あ、でも、嘘つきなら、「私は嘘つきである」って言ってるのも、嘘ってことよね? 「私は嘘つき」ってのが嘘なら、…本当は正直者ってことになるの? あれれ?
マイケル おいおい、正直者なら、「私は嘘つきである」って言ってること自体が、正直じゃないでしょ?
ジャネット だわねぇ。う〜ん、分かんなくなっちゃった。なんなの、いったい!
マイケル 最近こういうのにハマっててね。じゃ、次の質問。「これは絶対こうだ」って言えるものは、何がある?
ジャネット 絶対こうだ、なんて言えるものねぇ。無いわよ、そんなもん。
マイケル ほほう。絶対?
ジャネット そうね、「これは絶対こうだ」なんてこと、絶対に言えないわ。…あれ? なんか変ね。
マイケル でしょう〜♪ じゃ、次ね。永遠に変化しないものはありますか?
ジャネット ははぁ、分かったわ。永遠に変化しないものが「無い」って言ったら、「そのこと自体は変化しない」って言うんでしょ? いちいち深く考えてたら身が持たないわよ。
マイケル そうだねぇ。ま、俺の言うことなんて聞かないでよ。
ジャネット そうさせてもらうわ。…って、言うこと聞いちゃった!
一気に大乗仏教の解説に入ろうと思ったんですが、ここでいったん立ち止まって、部派仏教期の代表的な部派である「説一切有部」(せついっさいうぶ)の解説をします。そうすることで、なぜ大乗仏教や「空」(くう)の思想が出てきたのかが、より明確になると思います。
ただし、分かりやすい保証はありません。それは、説一切有部の思想というのが、とにかく「分かりにくい」のが特徴だからです。釈尊の教えを細かく分析しているうちに、ついつい分析が進みすぎて、やや釈尊の教えから遊離してしまったようです。そして、そのあまりの複雑さへの反動で、「空」の思想が登場したのです。
そうはいっても、まず分かりやすいところから入りましょう。
説一切有部の人たちは、人間の煩悩について分析し、108個に分類しました。これがいわゆる百八煩悩です。大晦日の鐘を百八回突くのは、ここから来ています。
という感じに、彼らは様々なことを分類して分析するのが得意です。例えば人間の心理現象を四十六心所に分けて、あらゆる心理状態はすべて46種類のどれかにあてはまるという説も唱えています。
そして、彼らの分析の真骨頂が、「三世実有説」(さんぜじつうせつ)です。
彼らは、世の中のあらゆる物事、森羅万象を形成している要素を、70ほどの「法(ダルマ)」に分類しました。世の中のあらゆる物事は、いずれも70ほどの法(ダルマ)の1つである。法(ダルマ)そのものは、欠けることなく過去−現在−未来の三世(さんぜ)において実在している。しかし、これらは常に入れ替わり立ち代り私たちの前に現れては消えていくので、私たちの目には移ろいゆく状態として認識される。これが「諸行無常」の実態なのだと説いたのです。
さらに彼らは、法(ダルマ)には「自性」(じしょう)がある、と考えました。自性というのは「それそのもの自体として存在する性質」ということです。何の原材料もなく、いっさいの手を加えることもなく、最初からそれは「それ」として有る、という性質です。70ほどの法(ダルマ)は、それ自体が原因もなく最初から在り、それが変化して森羅万象を構成している。そう考えたのです。
彼らの解釈によると、釈尊の「一切は無常である」という考え方は、言い換えれば「無常という『一切』が有る」ということであり、自性の有る法(ダルマ)が変化して一切を構成しているというのです。だから、彼らの名を「説一切有部」と呼ぶのです。
彼らはそうやって「一切の自性」を見極めようとしました。そして、そのためには出家して修行することが大事とされました。
ただし、一切の自性を見極めることができたのは釈尊=ブッダだけであり、われわれ修行者は決してブッダに到達できない、せいぜい「阿羅漢」(あらかん)どまりだ、と考えました。彼らにとって、修行して阿羅漢になることが仏教の真髄でした。
「一切は無常だ」と言うが、その法則性そのものは不変だ、という彼ら。振り返って、この「三世実有説」は、釈尊の「縁起」の考え方とは矛盾しないのでしょうか。
釈尊は、縁起の構造を深く見極めた者が、苦しみから救われる、と説きました。縁起とは、物事の結果(果)には必ず原因(因)があり、あらゆる物事には複雑なつながり(縁)がある、という考え方です。世の中のあらゆるものが、「因」→(縁)→「果」→「因」→(縁)→「果」… の鎖で複雑に絡まりあっているという状態、これが縁起です。
これからすると、確かに説一切有部の人たちは、縁起の構造を深く見極めた結果、「一切に自性が有る」という説に行き着いたのでしょうね。ただ、「一切有」を強調すればするほど、どうも釈尊が力点を置いたこととは離れているような気がします。
しかし、なぜ彼らが「一切有」に至ったのか、その動機のほうが実は重要ではないかと思います。
説一切有部の人たちは、苦しみから救われることを誰よりも強く望んだのでしょう。そして「縁起を見極めれば苦しみから救われる」という釈尊の教えを深く追究し、「ならば見極めた先の“答え”があるはずだ」と思ったのでしょう。その答え(仏の智慧)を会得することが、彼らにとって苦しみから救われることだったのではないかと思います。答えがはっきりすれば安心です。彼らは答えを求めて、「一切有」に行き着いたのです。
まぁ、いずれにしても説一切有部は、一般の人には意味不明な抽象論に走り、分かる人だけが分かればいいという出家中心主義に陥っていきます。そこへ現れたのが、「空」を説いた大乗仏教の祖、ナーガルジュナ(龍樹)でした。
2007年3月21日 坂田光永