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釈 尊 フ ァ イ ブ の
第16話「仏教否定の仏教」 −大乗仏教の誕生−
マイケル 先生、先生、ジャネット先生、仏教を教えてくだせぇ。
ジャネット なによ先生って。気持ち悪いわね。昔から「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」って言ってね、先生って呼ばれたときは、気をつけないといけないのよ。
マイケル 確かに、先生って呼ばれてる職業って、実は嫌われてることが多いよね。学校の先生、お医者さん、政治家、そして …お坊さん!
ジャネット 先生って呼ばれるってことは、いちおう権威だからね。嫌われつつも、権威なのよ。
マイケル でも、政治家なんて悪いことばっかりして、当事者以外、誰も権威だと思ってないでしょ。
ジャネット まぁ、それはお坊さんもいっしょかもね。戦国時代、日本にきたフランシスコ・ザビエルが、「日本の僧侶はボンズと呼ばれてさげすまれている」って言ってるわ。彼らは酒を飲み、肉を食らい、全然修行してないって。
マイケル 今なんか、結婚してないお坊さんのほうが少ないんじゃない?
ジャネット そうよね。そんなのを見た外国人は、さぞびっくりするんじゃないかなぁ。
マイケル でも、日本の坊さんは、そんな外国人に、きちんと答えられるよ。
ジャネット へぇ〜、なんて?
マイケル 「日本は大乗仏教だから、何をやっても大丈夫ッキョー!」
ジャネット ぜんぜん大丈夫じゃないわよっ!
さぁ、気を取り直して、ここからが本格的な大乗仏教の章に入ります。
とはいえ大乗仏教というのは、その誕生からして、いろいろな出所が言われています。仏像が伝わって始まったとも言えますし、もともと民衆の間にあった信仰の集大成ともいえます。そして、その特徴も、挙げればきりがありません。
なので、こんな表を作ってみました。名づけて、大乗仏教一目瞭然リスト!
「大乗仏教」の特徴 | 「小乗」の特徴 | |
成立時期 |
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成立要因 |
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基本的な考え方 |
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経典 |
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仏とは |
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人物・思想 |
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信者 |
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信仰のスタイル |
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その後の展開 |
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これが大乗仏教の特徴です。分かりました? …分かりにくいですよねぇ。
じゃぁ、こんな質問を誰かにしてみましょう。「大乗仏教を一言で言うと?」
「大乗仏教ってのは、利他行(菩薩行)をする仏教だよ」
「いやいや、ナーガールジュナが理論構築した『空』を中心に据える思想だよ」
「在家仏教、これが大乗の本質だ」
などと百家争鳴。いろんな意見が噴出して、収拾がつかなくなりそうです。
そこで、無知蒙昧な私なら、あえてこう言ってしまうでしょう。
「大乗仏教とは、小乗仏教以外の仏教です!」
…なんと大雑把な。でも、けっこう実態に即した考え方だと思っています。
事実、大乗経典は、それまでの部派仏教(特に説一切有部)を批判する表現が多々あります。やつらは出家者中心で、意味不明な抽象論をこねくり回し、利他行を重んじないので、自分しか救わないから「小乗」(小さな乗り物)である。我々はそうではなく、利他行を行い一切の衆生を救わんとする仏教、つまり「大乗」(大きな乗り物)なのだ、というわけです。(ちなみに表では「小乗」という言葉をつかっていますが、これは大乗以前の部派仏教を大乗仏教側から批判的に呼んだ蔑称です。今では使いませんので、あしからず)
私たちの最も身近な経典である「般若心経」は、想像以上に「小乗」批判のお経なんです。途中を読んでみましょうか。
経文 | 書き下し | 現代語訳 | 解説(「小乗」では) |
是故空中 | この故に空の中には | 「空」という境地に立てば | |
無色無受想行識 | 色もなく、 受と想と行と識もなく |
色(肉体)もなく、 受(感覚)も想(表象)も行(意志)も識(認識)もなく、 |
色・受・想・行・識を「五蘊」という (=私たちの肉体と精神のこと) |
無眼耳鼻舌身意 | 眼耳鼻舌身意もなく | 眼も耳も鼻も舌も身体も意識もなく | 眼・耳・鼻・舌・身・意を「六根」という (=私たちの感覚器官のこと) |
無色声香味触法 | 色声香味触法もなく | 眼に見える対象も音も香りも味も触れる対象も意識する対象もなく | 色・声・香・味・触・法を「六境」という (=感覚器官の対象のこと) |
無眼界 乃至無意識界 |
眼界もなく ないし、意識界もなく |
眼で認識する世界もなく、 ひっくるめて、意識する世界もなく |
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識を「六識」という (=六根による認識) また、それぞれに「眼(識)界」や「意識界」などがある (=六根で認識した世界) * 経文では最初の「眼界」と最後の「意識界」で代表させている |
無無明 亦無無明尽 |
無明もなく また無明の尽きることもなく |
迷いもなく、 また迷いが尽きることもなく |
無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死 を「十二縁起」という (=私たちが「苦」を感じる原因を順に分析したもの) * 経文では最初の「無明」と最後の「老死」で代表させている |
乃至無老死 亦無老死尽 |
ないし、老死もなく また老死の尽きることもなく |
ひっくるめて、老いや死もなく、 老いや死が尽きることもなく |
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無苦集滅道 | 苦と集と滅と道もなく | 苦(苦しみ)も集(苦しみの原因)も滅(苦しみを取り除くこと)も道(苦しみを取り除く方法)もなく | 苦・集・滅・道を「四諦」という (=苦しみを解決するプロセス) |
無智亦無得 | 智もなく、また得もない | 智慧もなく、また得るということもない | 「小乗」の到達目標は「阿羅漢」になることである (=ブッダまでは到達できないという考えから) * これは大乗では仏の智慧を得ていないのと同じこととされる |
以無所得故 | 得る所なきの故に | 得るべきものがないためである |
どうです。般若心経は、説一切有部などの部派仏教における「五蘊」「六根」「六境」「六識」「十二縁起」「四諦」などを、コテンパンに「無い!」と言い切っているのです。なんだかんだ難しいことを言うのはやめよう! そんなものは無い! 空である! というわけです。
はっきり言って、小乗(部派仏教)の全否定ですね。そこから、大乗仏教はスタートするのです。
確かに、第15話(説一切有部)で見てきたように、部派仏教は重箱の隅をつつくような抽象論に終始してきたきらいがあります。ただ、そうであったとしても、釈尊の教えを曲がりなりに受け継いできたのは間違いありません。それを大乗仏教は全否定するわけですから、「大乗仏教ははたして仏教なのか?」という疑問が生じてもおかしくないですね。「大乗仏教は仏教じゃない」という考え方を大乗非仏説といいます。
また、大乗仏教は「利他行」という形で在家信者をきちんと位置付けた反面、自分自身の「行」の位置づけは弱くなりました。修行しない僧侶が、はたして在家信者を救えるかは、現実問題として、かなり疑問です。
一方、「小乗」と批判された上座部仏教は、今でもタイやミャンマーで信仰されています。タイでは、日本よりもずっと僧侶が尊敬されています。僧侶が修行に専念しているからこその尊敬です。
修行するだけで民衆を救わない僧侶もダメ。でも、修行しない僧侶もダメ。そのジレンマを、大乗仏教はかかえ続けることになります。
2007年7月21日 坂田光永