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釈 尊 フ ァ イ ブ の
第20話「くたばれ出家仏教」 −維摩経と在家仏教−
ジャネット あんた、またゲームばっかりやって〜! 今度は何をやってるの?
マイケル じゃじゃーん、「RPG維摩経(ゆいまきょう)」っていう、ロールプレイングゲームだよ。主人公の維摩居士(ゆいまこじ)ってやつが、仏教の聖者や菩薩を次々とブッ倒していくわけさ。
ジャネット まぁ、なんて不謹慎な…。
マイケル おっと、出たな舎利弗(しゃりほつ)! まずは坐禅をする舎利弗に攻撃! セリフ「ただ座っているだけが坐禅じゃないぞ」を選択だっ、おりゃっ!
ジャネット ちょっと、それどういう意味?
マイケル え、何? 邪魔するなよ〜。これは、舎利弗が坐禅しているところに維摩がやってきて言うんだよ。「こんな静かな森の中で、はなから煩悩の起きそうにないところで坐禅をするのでは意味がない。煩悩を断たずに坐禅しなさい」ってね。
ジャネット つまり、煩悩即菩提ってわけね。煩悩と悟りを対立させて考えてはダメ、不二(ふに)ですよ、ってことね。
マイケル そう、これで舎利弗はまずダメージをくらう。続いて「花びら攻撃」!
ジャネット なんなの、それは!?
マイケル 舎利弗の上から花びらを降らせるんだ。舎利弗の体には花びらがまとわりつく。そうすると、「着飾ってはいけない」っていう戒律を破ることになるから、舎利弗は必死で花びらを引きはがそうとするんだけど、取れない、困った〜、っていう攻撃。
ジャネット 戒律にこだわっているうちは「空」を悟れないってことね。
マイケル というわけで舎利弗を倒して、と。…おっ、ついに大ボスが登場だ! 出たな、文殊菩薩!
ジャネット はいはい、文殊菩薩が大ボスなわけね。
マイケル ここで最後の攻撃を、次の中から選ぶんだ。A「神通力」、B「空を説く」、C… あれ、Cの欄が空白だ。こりゃ、Cは選べないや。
ジャネット いや、たぶんCね。
マイケル どういうこと? Cを選択… あ、ほんとだ。文殊菩薩がやられた。やーりぃ、くたばれってんだ! へへっ。…で、なんで分かったの?
ジャネット これは、『維摩経』っていうお経のストーリーそのものなのよ。最後に文殊菩薩に「あなたはどうやって“不二”を説くのか?」って聞かれて、沈黙で答えるわけ。そういしたら、文殊菩薩が「すばらしい、不二とは文字や言葉では表せない。これこそ不二である」と讃嘆したって話よ。…って、あんた聞いてる? 意味わかった?
マイケル ……。
ジャネット …ちょっと、無視してんじゃないわよ? えいっ!
マイケル いてっ。意味が分かっているかいないかは答えられない。不二だよ、不二!
ジャネット ぼーっとしてたただけじゃないの! あんたが不二を悟るなんて、百年早いわ!
今回は鎌田茂雄著『維摩経講和』(講談社学術文庫)を参照させていただきました。 |
大乗仏教の経典として代表的なものをあげるとすれば、『般若経』、『法華経』、『華厳経』、『浄土三部経』などが挙げられますが、『維摩経』(ゆいまきょう)も欠かすことができません。しかし『維摩経』は、他のお経と比べると、ずいぶん異質なことろがあります。
というのは、『維摩経』 は維摩居士(ゆいまこじ)を主人公とする戯曲のような構成をとっていて、ひとつのストーリーがあるのです。
あるとき、維摩という居士(=在家信者)が病気になりました。維摩は仏教に造詣が深かったため、釈尊は弟子の誰かを見舞いにやろうと思います。しかし、舎利弗(しゃりほつ=シャーリプトラ)をはじめとする十大弟子や、弥勒(みろく)ら菩薩たちは、かつて維摩にぎゃふんと言わされたことがあるので、見舞いを嫌がります。
そこで、菩薩の筆頭格である文殊菩薩が、代表して維摩のもとを訪れることになりました。他の弟子や菩薩たちは、ゾロゾロと文殊のあとをついていきます。
文殊菩薩が到着するやいなや、維摩は神通力で広大な部屋を整え、文殊を迎え入れます。そしてここから、文殊と維摩の丁々発止の問答が繰り広げられる、というわけです。
このお経のテーマは、次の点にあります。すなわち、大乗仏教の基本理念である「空」を、特に「不二」という視点で明らかにしていきます。「不二」とは、生と死、善と悪、煩悩と悟りなど、一見して対立する概念が、実は一つである、という思想です。「煩悩を捨てて悟りを得るぞ!」というように、対立する概念の一方だけにこだわるのではなく、その対立を超えたところに本当の悟り(=空)があるのだ、ということです。
私たちはさまざまなものを、二項対立的にとらえがちです。物事を分類(分析)して考えることを、仏教語で「分別」(ふんべつ)といいます。一般的には「分別がある」というのは良い意味ですが、仏教では、分別を超えた境地にこそ、悟りがあると考えます。これは、初めから1つであれば良いのかというと、そうではありません。対立する2つのものがあり、そこから自由になることが「不二」なのです。
そのほか、このお経には、次のような、ちょっと変わった特徴があります。
このように『維摩経』は一風変わったお経です。
しかし、最大の特徴は、何といっても維摩居士が在家の人であるという点でしょう。「居士」とは「在家信者」という意味です。維摩は世俗にまみれ、金儲けや女遊びにかまけています。それにもかかわらず、十大弟子の舎利弗よりも優れ、文殊菩薩をも凌駕する大乗仏教の体得者として描き出されています。まさに、煩悩即菩提、不二の境地に達している人物なのです。
この経典の本当の存在意義は、そんな維摩というキャラクターそのものにあります。一介の在家信者が、舎利弗や文殊ら出家者をぎゃふんと言わせるという、その設定。まるで、民衆をかえりみない出家仏教に対する、在家信者の怒りが満ち溢れているようです。これをどうとらえたらよいのでしょうか。『維摩経』は、出家仏教に対する在家仏教の勝利宣言なのでしょうか。在家信者なくして出家者の修行生活は成り立たないぞ、という、在家信者からの強いメッセージなのでしょうか。
後世、『維摩経』は、中国や日本で熱狂的な支持者を生み出します。実は、かの聖徳太子も、この『維摩経』を篤く信仰しました。仏教に造詣が深いにもかかわらず、一生を在家信者として過ごした聖徳太子ですから、納得ですね。
とにかく私たちは、このような経典がつくられ、護持されてきたということに、ただただ驚くばかりです。出家者、在家信者、ともに必読の経典です!
2008年8月21日 坂田光永