COLUMN
いつも ありがとうございます


制作者・・・・坂田みどり(妻 パソコン歴 六年半になります)


 101    <HP 開設 四周年!> (みどり記)
更新日時:
2007/07/04
早いもので、2003年 7月に HPを立ち上げてから、丸四年が経ちました。
 
PCを始めた 最初の頃は、世界に開かれた インターネットということで、「不特定多数の人にも 見てもらえるかも」 と、希望・願望を持って 始まりましたが、現実には 難しく(笑)・・・結局、友人・知人を通じた 身内の方々にだけ 見てもらっています。
時々、コメントを頂くと、制作者は勇気づけられて、それでは また 頑張ろうかと、『持続は力』 を信じて、どうにかこうにか 皆様に支えられながら、 続けてくる事ができました。 ありがとうございます。
さ〜ぁ、これから 五年目の一歩が 始まります。
 
HPというのは、実際にやってみると、とても 『孤独』 を感じる時があります。
かなり無理をして(苦笑) コラム・掲示板を更新しても、無反応が続く時など、世界に ポツンと放り出された感覚を 味わう事があります。 見る人のいない花火のようで、“さびしさ” が増します。
 
私は、去年の 10月から、四国中央市の PC市民広場<よらんかほい!>に参加して、PCライフが 一転していますが、こちらに参加してみると、我がHPとの 一番の違いは、PCの 向こう側にいる人々の反応が、リアルタイム ということです。
例えば、<よらんかほい!>に 今日 『日記』 をアップすると、半日も経つと、メンバーから コメントがいくつか届き、お互いの 『日記』 を介して、会話が 行ったり来たりするので、毎日、PCで 井戸端会議をしている感覚です。
コメントに使われる 文字や 行間の端々に それぞれの個性がにじみ出て、旧知の知り合いのように感じられ・・・・・オフ会で 直接 お会いしても、初対面という感じは しませんでした(笑)。
 
HPの方も、リアルタイムにとは 『ぜいたく』 は申しませんが、たまには、「コラム読んだよ」 とか、「今度の新作、気に入った(笑)」 とか、コメントを頂くと “勇気百倍” になると思います。
 
今後とも、応援を よろしく お願い申し上げます。

 102    満 103歳と4ヶ月の 祖母☆ (みどり記)
更新日時:
2007/06/27
先週、明治 37年 2月14日生まれの 私の母方の祖母の所へ、坂田の母の 葬儀へ出席してくれた後、こちらに滞在していた 実家の 母と弟と、それに 瑞来さんも加わって、お見舞いに 行ってきました。
 
103歳の祖母は、78歳の叔母と 二人で、今治市の桜井に住んでいます。 叔母が結婚しなかった事もあり、母娘二人で、何十年も、住み慣れた家、住み慣れた土地から 一歩も動くことなく 暮らしています。 (きっと、それが 長生きの秘密 かもしれません)
 
今回、30年ぶりに会った 弟とは、暫く、話をしていたら、「“雄二” か〜、歳とって〜」 と、弟の顔も 思い出しました。 瑞来さんのことも、「絵を描いている・・・」 と言ったら、おぼろげながら 判ったようでしたが、四年ぶりに会った 肝心の自分の娘 (私の母)は、どうしても 判らなかったようで、母が、何度も 「私よ〜」 と言っても、「“きよ” か〜?」 と、祖母の すぐ下の妹 (数年前 95歳で他界している )の名前を呼びます。
 
母は、「日頃、ご無沙汰ばかりで 親不孝しているから 仕方がない」 と言いながらも、ちょっと 残念で、寂しそうでした (苦笑)。
きっと、祖母の中では、母は 『こんな 白髪頭の 年寄りでなく(笑)、お嫁に行った頃の、若くて 可愛らしい娘』 のまま 生きているのでしょう。
 
それから、感心したのが、祖母の 『生命力』 の強さでした。
祖母が、出されたサンドイッチを食べ 牛乳を飲む、りっぱな そしゃく力と、呑み込む力に、少々 驚きました。 (それに比べてみると、坂田の母は 随分と弱っていたのだと 実感しました)
 
これなら、まだまだ 105歳 (桜井の長寿記録だそうです) まで行けるかも?! と思いながら、帰ってきました。
(叔母は、大変でしょうけど・・・・・(苦笑))

 103    <秋の 個展の準備を 少しづつ @> (みどり記)
更新日時:
2007/06/20
3月末に、急に決まった 今年 10月の 松山での個展に向かって、準備のプロセスを、時折 少しづつ 記録していこうと思います。
 
 
まずは、作品を揃えるのが、第一段階の大事!(笑)
 
これは、たまたま 一年半前に 新居浜の 『音楽の泉』 の方に、2008年1月の 個展を頼まれて、作品を ボチボチ 貯めていたので、今年 3月末現在で 9点ありました。
 
個展が決まってからは、これら 9点の絵を加筆・修正の日々。 少しでも レベルアップした作品を 見てもらいたいのが 人情なのでしょう。
 
次に、一点でも 多くの作品を 描いてもらうべく 周りの応援団は、旗振りを頑張っているのですが〜、本人は、慌てず、騒がず、マイペースで 制作を 続けております(笑)。
個展までに、あと 何作の新作が 出来るのか?!
楽しみにしていましょう。
 
先週は、今回の 個展の案内状に使う作品を、『 20F ブドウのある静物 』 に決めて、加筆・修正後の この作品の撮影を、二人で アトリエで やり直しました。


 104    先週の続き B(終) (瑞来記)
更新日時:
2007/06/13
(3) 辺縁対比の現象
前側の物と 背景となる後ろ側の物との 境界は そのまま事実だけを取り上げれば 自然にある境界線です。 ところが、人の目が それを見る時には、その境界線の両側で 辺縁対比現象が起こります。 ( 図示、村上元彦著 『どうして ものが見えるのか』 110 pより )
 
その結果、自然の境界線は より強調された形で、輪郭線として 立ち現われてきます。 何故 辺縁対比現象が起こるのかと言えば、私の推測では、人間は 本来 物を よりくっきりと見たいという志向性を持っているからだと考えます。 辺縁対比現象があるために 物と物との境が くっきりと際立つわけです。 そして 物の輪郭線が 際立てば、その物を含む空間が 見かけ上 明るくなったと 同じ効果を生みます。
 
この事は、例えば、輪郭線を くっきりと描く ボッティチェルリや フェルメールの画面は、押しなべて 明るめの印象がしますし、また、輪郭線を 比較的 フェイドアウト(ぼんやり)する レオナルド・ダ・ヴィンチや レンブラントの画面は 押しなべて 暗めの印象を受ける というところにも表れています。
 
辺縁対比現象に絡めて言うと、上に挙げた 四人のヨーロッパの大巨匠たちの中でも、フェルメールが 辺縁対比現象を 一番よく 知っていたと思います。 彼の輪郭の処理の 手練手管の精妙さは、“ウ〜ン” とうなってしまう上手さで、その観察力に限って言えば、フェルメールは レオナルド・ダ・ヴィンチを凌ぐのでは と感じています。
 
輪郭線というのは、自然な境界線を、遺伝子が 増幅した線ですから、その増幅度合や それに与える表情というのは、現実の境界線から離れて 各自の自由裁量に ゆだねられる事が多くなります。
 
輪郭線は、自然界には実在しない いわばイリュージョンですから、基本的には どう描いても 許されてしまいます。 人は、「自由に やっていいよ」 と言われると、却って 思案にくれて 不安になってしまいますが、輪郭線も また 「正解」 のない 暗闇の世界です。

 105    先週の続き A (瑞来記)
更新日時:
2007/06/06
(2) 明暗や 色彩や 輪郭の 判断結果の中に、すでに 「距離」 が組み込まれてしまっているらしい事
 
 
例えば、絵を描く時、手前側に 鈍い色彩があって、背景の後ろ側に 鮮やかな色彩があった時、どう 色彩を与えれば良いのでしょうか。
 
私の場合は、手前の鈍い色彩を 鮮やか目に描き、背後の鮮やかな色彩を かなり しっかりと地味目に操作して描いて、その場をしのぐ というやり方をしています。
 
「まえ」 「うしろ」 という現象は、絵を描く時の つまづきの 大きな要因になります。 以前にも コラムに書いたのですが、人の目と 動物の目の 有り様の 大きな違いについて考える事は、「距離」 をめぐって 人の脳が どう対応しているのか 大変示唆的です。
 
図の様(適当な 分かり易い図が見つからなくて・・・)に、大まかに言うと、人の目は 同一方向を向いた顔面に、同一方向に 向かって付いているのに対し、動物の目は 鼻梁を頂点にして 異なった方向を向いた平面に お互いの逆の方向に向かって 付いている事です。 その結果、人の目は 視界は狭いのですが 精確に 「距離」 を測る事が出来るのに対して、動物の目は 視界は広く取れますが 「距離」 は精確には測れません。 ( 「精確」 というのは、針の穴に糸を通す事が出来るような 「距離」 感覚)
 
この様な 構造上の違いは、動物には 視界が広い必要があり、人間は 視界の広さを犠牲にしても 「距離」 を精確に測らなければならない 日常生活があったことを 表わしています。 しかも、人間は 少なく見積もっても 500万年以上は、そういう主旨の生活をしてきたのですから、「距離」 を測るという機能が、脳に 深く 刻み込まれているだろう事は、十分想像できます。 私の予想では、脳の情報処理の優先順位が、1番とか 2番とかの位置にあるのでは と感じています。 しかし、人の脳の その働きは、余りに 精密にできていて 近寄り難い不思議を持っているので、それ以上の事は判りませんから、絵画制作中に よく感じる実感を そのまま感想しますと、次の様な 事柄になります。
 
明るいと暗い ・ 強いと弱い ・ 鮮やかと鈍い というような、明暗 ・ 色彩 ・ 輪郭 に関する あらゆる判断の中に 「距離」 による補正が、判断と分かち難く、自動的に 織り込まれている様に感じます。 時と場合によって、具体的に どう補正されているのか 霞の中ですが、例えば、遠くの物を 受けた印象のままに描くと、対象が 極端に近くに寄ってくるという現象が起こりますし、逆に 近くの物を 受けた印象のままに描くと、対象から 生気が失われ易いという現象を、よく 体験します。
 
今、挙げた二点は、ほとんど毎日 実感している体験ですが、その他の体験も考慮して 想像しますと、脳の 視覚的判断のあらゆる事柄が、「距離」 を内包した 補正的判断である様に感じます。
 
しかしながら、それだからこそ、脳が行う 補正的判断 (「距離」 の分だけ、“サバ” を読んだ判断 )を 「スイッチオフ」 にして、「生」 の情報の姿を予想する 「快感」 が、絵を描く動機の一つには なるはずです。


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