久し振りのコラム担当です。
「錯視」 という概念は、いつ頃、学校で教わるのでしょう。 自分がどうであったのか、もう 忘れてしまいました。
「錯視」 には、決まって あの図形( <--> と >--< ) が登場しますよね。
「錯視」 の代表として、何故 あれが 登場するのかといえば、多分、印刷が難しくないという事と、何よりも 「錯視」 の検証が どこでも 誰でも 簡単にできるという事に あるのだろうと思います。
それで、この二つの図形の 一見 違った長さに見える 線分の部分の長さが ものさしを当ててみると 全く同じ長さである事を検証して、「あぁ、ほんとだ」 と納得して、一応それで “一件落着” となります。
確かに “一件落着” には違いないのですが、うるさい事を言えば、問題は その後に起こるのです。
「錯視」 の例として、同じ長さの線分が、<条件>によっては、違って<見える>という事は、皆が 何の疑念もなく 了解するのですが、それと抱き合わせになって、それと同時に 実は もう一つ、ほとんど 誰もが 受け入れている<重大>な事実があります。
それは、やっかいな事に、滅多な事では 受け入れた本人が、ある一つの考え方を 受け入れてしまった事に 気がつかない事です。 おそらくは、教科書に 著述した本人さえも その事に 気が付いていない場合が多いのでは と思います。
それは 「錯視」 という言葉を 裏側から しっかりと支えているのが 「正視」 という概念である事です。 「錯視」 という言葉の送る ほんとのメッセージは、「錯視」 という現象が、人間の目にとっては<例外的>な現象であって、当然の事ながら、通常は 人の目は 「正視」 していますよ という<常識>の確認なのです。 そして誰もが この 「正視」 が、人の目の 通常の生理現象である事は 疑いません。 自分が いつも 「狂って見えている」 とは、誰も そう感じていないからです。
しかしながら、しかしながらです。 私の絵画体験から 推し測るに、これは 断言できるのですが、人間には 「正視」 という現象は、ありません。 人が 外界を見るときは、必ず 全てが 「錯視」 現象として 現われます。
全ての物の 色彩と 陰影と 輪郭線は、お互いに 影響し、干渉しあって、お互いに<少しだけ>( 同じ長さの線分が、少しだけ 違って見える程度に ) ずれて見えているのです。
では、その 本来の姿は どこにあるのかといえば、それは、永遠の謎だと 考えています。 そして、人間にとっては、全ての物体の 本当の形状は、謎であるという事が、絵画を( 特にリアリズム絵画 ) を成立させる要件の 最も 重要な動機の一つであると、私は考えています。 また、それだからこそ 性懲りもなく、本当の形状を 探して、絵を描く事が できるのだと考えています。
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