COLUMN
いつも ありがとうございます


制作者・・・・坂田みどり(妻 パソコン歴 六年半になります)


 121    <シールド> (瑞来記)
更新日時:
2007/02/14
シールドについては 昨年の 11月22日のコラムでも書きましたが、それから後も、体力と 気力と 時間が許せば パワーアンプを 銅板やアルミ板で 隙間なく覆いつくすように 色々 工夫しながら 作業を進めてきました。
なぜ、工夫が必要かといえば、銅板やアルミ板が アンプ本体に触れないように カバーを中空に保持しなければならない事と、もう一つは、アンプから出ているスピーカー線 2本と 入力信号線 2本の 計 4本の銅線にも接触しないように 設置しなければならない事で、特に 4本の線の周囲を ほどほどに 隙間なく埋めるのは 至難の技(?!)なのです。
 
前回のコラムの頃には、まだまだ シールドに対する考え方が いい加減でありましたから、「適当に覆えば良いだろう」 と高を括って 作業をしていたのですが、習うより慣れろで、段々と いい加減に覆ったのでは シールド効果が失われてしまう事が 判ってきて、「これは 大変だぁ〜!」 という事になりました。
 
何事も<まともな事を>やろうとすると 只ではすまない事を 思い知らされてしまいましたが、その困難な作業も 漸く 終わりになりかけてきました。
当て推量ですが、完全なシールド状態の 8割くらいは達成したのでは と自己判断しています。 その甲斐あってか、音は 前回の時に比べて、随分と 静かになり、力強くなってきました。
 
その音の効果から 推測しますと、生活空間に飛び交っている電磁波が 信号線に混入した時には、それは単に “ザラザラ” とか “ザ〜” とかいう雑音を 信号に添加するだけではなくて、例えば、今、仮に A+の信号が 銅線中を通っている時、侵入してきた電磁波の中に、もし A−の信号があれば、A+の信号は 相殺されて 消されてしまうのではないかと 考えています。 (直感だけですが)
 
それにしても、オーディオを趣味にしている人は 沢山いるでしょうが、シールドの 不十分さの 加減に応じて、音が どの様に 変化していくのか 身をもって 微細に体験した人は少ないのでは と少し 『得意』 な気分でいます。
 
そもそもの始まりは、私が パワーアンプのカバーを 全部 取り除いてしまうという 『暴挙』 をやってしまったおかげですが、もし 私に 誰かから教わった<シールド>に関する知識があったならば、そんな 『アホ』 なことは 決して出来なかったでしょうから、私の 『無知』 が、私に ほとんどの人が出合っていないだろうと思われる 貴重な体験を もたらした訳で、結果的に言えば、私は<シールド>とは何かを、具体的に 少数の人しか達していないであろう程 高度に 学ぶ事になってしまいました。
 
これは、前回の 私のコラムがらみで言い回せば、「 『有知』 と闘える 『無知』 」 と言ってもよい程度の 出来事でした。

 122    <国民老齢年金の手続き>の 顛末 (みどり記)
更新日時:
2007/02/07
今年の 1月28日で、瑞来さんも 満65歳になりました。
 
その一ヶ月位前に、社会保険事務所から、緑色の目立つ封書が 届きました。
中を チラッと見てみると、準備する必要書類が、住民票とか、戸籍謄本とか、色々有りそうだし、・・・特に、その手続きは、車で 小一時間も かかる新居浜まで 出向かなければいけないし、・・・・・色々、億劫なこともあって、とりあえず、そのままに しておきました。
 
それが、誕生日の 3〜4日前に、銀行の外交員の方が来られて、『国民老齢年金の手続きの代行』 をして下さるということなので、“渡りに船” で、お願いする事にしました。
 
まず、緑色の封書に入っていた書類に、指示通りに 記入していきます。(これは、私が書いても可)  気をつけなければいけなかったのは、瑞来さんの 「来」 は、戸籍では 「來」 になっているので、注意して 書きました。
 
次に、「年金手帳を 出して下さい」 と言われて、「??それ何ですか?」、すると銀行の方は、「国民年金を申し込んだ時に、市町村長から 貰っているはずです」 と言われましたが〜〜〜、そんな 30年も前の事!
「記憶はありませんが、捜してみます」 とは言ったものの、半日、心当たりを捜しても 見つかりませんでした。 再発行の手続きを しなければいけないかと思っていたら、結局、「基礎年金番号通知書(平成9年1月1日 発行)」 は、保管してあったので、これで、用が足りる事になり、ヤレヤレ。
 
住民票や、戸籍謄本も、銀行の方が 代理で取りに行ってくれて、その他、「住民票コード通知書」 は、保管してあったので、やっと 書類が揃い、銀行の方が、社会保険事務所の方へ 手続きをしてくれました。
 
それから、二日程して、「社会保険事務所」 から、『老齢基礎年金の裁定請求書の受付控え』 という書類が届いて、一件落着です。
 
(皆様、暮々も、「基礎年金番号通知書」 とか、「住民票コード通知書」 とか、保管しておきましょう(笑))

 123    とりあえず、新作<蘭(マズルカ)>できました☆ (みどり記)
更新日時:
2007/01/31
モデルを設営して、三週間。
今までの最短で、『 とりあえず、新作できました』 に たどり着きました。
 
先日の掲示板にも書きましたが、何気なく 蘭の花を見ている時は、蕾み以外は、結構、「ジ〜〜ッ」 と動きが ないように感じますが、仔細に観察していると、葉っぱも、花びらも、少しづつ 動いて、お互いの関係に ズレが生じてくるそうです。
 
瑞来さんは、本当は、休み々々、ゆっくりと描きたいのに(笑) モデルの方が 「ナマモノ」 で、待ってくれそうもないので、(日頃のオーディオをつつくのも、聴くのも 中断して)、連日、休みなく 描き続け、最短記録と 相成りました。

 124    『えびじゃこの 背わた取り』 (みどり記)
更新日時:
2007/01/24
20 年位前、新居浜の料理教室へ通い始めて 間もなくの頃、数ヶ月だけ来られた 小さな病院の 給食調理に たずさわっていた年配の方が、『えびじゃこ(瀬戸内海の3〜5cmの小海老)』 を料理で使った時、「私は、いつも、えびじゃこの背わたは(給食調理の時も)抜いています」 と、事もなげに、普通に 言われたのを聞いて、びっくり!
 
それまで、私は、車海老とか、ブラックタイガーとか、芝海老の大きさ位までの 背わたは、当然、取っていましたが、日頃、四国東予地方で 日常的に ひんぱんに使われる、活々の小さなえびじゃこの 背わたを取るなんて、考えた事も ありませんでした。
 
でも、その時、その方が、あまりにも当然の様に 言われたので、「じゃあ、一度、私も やってみよう」 と、その後に “バラ寿し” を作る時に、初めて 面倒でも えびじゃこの背わたを取ってみました。
背わただけを集めてみると、「な〜るほど」 と唸ってしまうほどの それなりの量になりました。
作った後、すぐに食べた “バラ寿し” は、今迄と それ程 味の違いは判りませんでしたが、次の日、一日おいて食べると、歴然と違いました。 全然、生臭さが 感じられません。
 
この違いに、ものすご〜く 感激して、次に 活々えびじゃこで “えびそぼろ” を作ってみました。 これまた、濁りのない 美しいピンク色の “えびそぼろ” が出来て、味も 『抜け』 がよくて、上々です。
 
この体験が あった後では、どんなに小さなえびじゃこでも、背わたを取って使います。
その体験が積み重なってくると、段々と 味のつっぱらない良さが 判ってきて、後戻りできなくなっております。
これを、広めようとするのですが、中々、面倒で 手間のかかることなので、『えびじゃこの 背わた取り』 の輪は、広がらないのが 残念です(笑)。

 125    吉本隆明の言葉 「有能な奴と 闘える無能」( 2 の 2) (瑞来記)
更新日時:
2007/01/17
A の 「練習」 が後天的なものである事に、異を唱える人は いないでしょうが、@ の 「絵画的感受性」 となると 「天性」 なのか 「環境」 なのか 「練習と鍛錬」 から生まれるものなのか、誰にも よく判らない領域ですから、これを詮索しても 人生にとって有意義ではありませんから、さっさと放棄するのが最良の知恵です。
 
が しかし、それを無視して 前に進める程の知恵のある人は珍しいでしょう。
当然の事ながら、私も 画家を志して 絵の練習を始めた頃、絵画的感受性の不足 (特に 父 虎一に比べて) と、練習の不足を 身のすくむ思いで、実感していました。
もし 先に引用された 「無能」 と 「有能」 という概念を、その時の私に 当てはめるならば、無条件で 「無能」 の方に属する画家でした。
 
そして、その自覚は、今も変わらず 続いています。 実際には、最近は 絵も上達してきていますし、練習も 三十年間やったのですから、気持ちの有り様に 変化が起こってもよさそうなものですが、そうそう自分を 「有能」 だとは思えないのです。 ( 気持ちに いくらかの 余裕が生まれているのは 確かですが )
ですから、たまたま 私の絵を前にして、絵の話をする時、私が 「才能が無いから、こんな絵が 描けると思っています」 と発言すると、私を個人的に知らなくて、私の描いた絵しか 知らない人には、ほとんど 「?」 という表情をされてしまいます。
 
吉本隆明に なぞらえるのは、甚だ 気が引けますが、人の 一般的な有り様として 考えれば、「他から見て」 「有能」 である様に見えても、本人は大真面目に 結構 「無能」 と感じている場合は、以外に 沢山あるのでは と思います。
残念ながら、私には 吉本隆明のように 『有能な奴と 闘える無能』 と発言できるほどの 度胸も 器量も 「無能」 の徹底性もありませんから、( あの豪腕の 吉本隆明をもってしても 「理想」 ですと、フォローしているくらいですから ) 私の力量では、今回の感想あたりで 目一杯でしょうが、もう一度、別の 吉本隆明の言葉を借用しますと、「このような試み ( 『心的現象論序説』 を書いたこと 勢古浩爾 注 )に、ひそかに現在的意義を見出している」 ( 勢古浩爾の同書 170頁 ) という言葉が、私の “再現の絵” を練習する過程から出てきた “瓢箪から駒” ともいえる現状への、私の心境を 表しています。


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