COLUMN
いつも ありがとうございます


制作者・・・・坂田みどり(妻 パソコン歴 六年半になります)


 136    <結婚記念日> (みどり記)
更新日時:
2006/11/01
一緒に歩き始めて 29年が過ぎ、30年目の第一歩を踏み出そうとしています。
振り返ってみれば、十年ごとに 少しづつ変化がありました。
 
最初の十年は、結婚したのが 35歳と 27歳で それぞれの価値観、人生観も 概ね 固まりかけていた年令だったので、“24時間 常に 10m範囲内で暮らす” という生活体系の中では、お互い、真正面から向き合って、ぶつかり合って、3日にあけず ケンカの連続・・・・・でも、お互い 逃げ場は無いので、根気よく ケンカをした時代です(笑)。
 
次の十年は、瑞来さんの病気との闘いでした。
丁度、結婚10年目くらいの頃に、強烈な個性の持ち主の両親と、(瑞来さんに言わせると)気性の激しい妻(笑)に囲まれて、気弱な(?!)瑞来さんは、不満の積み重ねが 不安となって 『不安神経症』 の発作を起こしました。
それで、これはケンカをしている場合ではない!(笑)と、二人が 真正面から向き合うのではなく、同じ方向を向くように、お互い努力して その病気の克服に 10年かかりました。
この時、獲得したのが “なってから考える” の処世術で、これは 今も 役に立っています。
 
次の十年は、これは 現在も進行形ですが、介護の時代が やってきました。
この時は、24時間 常に 同じ空間で暮らしている強味で、介護は 本当に 折半で背負ってもらい、お互いの妹弟、手助けしてもらえる所は 全て巻き込んで・・・・・お互い、それぞれのやりたい事、しなければならない事との 折り合いをつけながら、なるべく 『ガンバラナイ介護』 の精神で、日々、過ごしています。
 
これからの十年は、どんな10年に なるのでしょう?!。

 137    <100回> Bの5(最終話) (瑞来記)
更新日時:
2006/10/25
先週までの4回のコラムで書いた事柄は、私が現実を 「再現」 してみたいと望んで、それに向かって トレーニングに励む過程で 数限りない失敗を重ねたあげくに ようやく割り出されてきた 「推論」 といえるものですが、私的な感想を申せば、それは 私の汗と 涙 といきどおりによって支えられている 「確信」 に近いものです。 「確信」 の言葉通り それを証明する事は 難しくてできませんが、その 「確信」 には 割合 確信を持っています。
 
生命が危機に瀕した時、生死を判別する重要な判断材料が、「意識」 があるか、「意識」 がないかという条件である事を考えると 「意識」 が神経細胞の最先端の現象である事は 確かでしょうが、しかし 又 こういう事実も それに負けず劣らず 心に留めなければならない事です。 すなわち 「意識」 は神経細胞も含めて60兆あるといわれている 各々の細胞の内部で何が起こっているのか ほとんど知らない事です。 ですから 「意識」 から漏れたり、はみだしたりしている現象が 脳も含めて人体全体には 沢山あるだろうという事、更に強調して言えば、「意識」 が把握している 人体の現象は、細胞の機能全体の 氷山の一角かもしれないという事は、かなり容易に推測できる事です。
 
だから、絵を描く時には 「意識」 が 「意識的」 に予想している現象からは “あれっ?!” という予想外の現象が 色々 起るのですが、それも 「意識」 が全てではない と前提に立てば 「予想外」 の出来事が起ったとしても、それには ある理由があって起っているのだからと考えて 「結果」 となるべく矛盾しない 理由づけを考えていきますと、 「意識」 は 必ずしも脳の 「全体」 ではなく、又、必ずしも ニュートラルの性格ではなく、ある色合いを持って機能しているのではという 「想像」 が生まれてきます。
 
ところで 日本人は絵を描く時、いつの頃からか 「現実」 を描くよりは 「意識」 の方の味方をして、脳にある記憶の世界を描いてきたと思えます。
例えば、女性を描く時、具体的な生きている “あの女性” を描くよりは、「美人」 という 「概念」 を描く方を良しとする といったあんばいです。 それに加えて 20世紀になってヨーロッパが 「現実」 を描く事を放棄して、「概念」 の絵画へと傾いて行ったものですから、戦後の日本の絵画は 「意識」 の野放し状態になっています。 それを良しとするか 悪しとするかも 「立場」 の問題ですが、私は 随分と 「欲求不満」 に感じています。 私としては、この状況に対して 改善とは言いませんが、異議申し立ては しなくてはいけないと考えています。 (終)

 138    <100回> Bの4(おまけ) (瑞来記)
更新日時:
2006/10/18
目を通して 神経細胞が汲み上げる 「現実」 の情報には、固有の形・固有の色合いという 『概念』 の情報だけではなく、同じ密度で 『距離』 と 『光と陰』 の情報も また存在しているはずです。 ですから今 「意識」 を伸び伸びとさせる絵のほうを選択した場合、「意識」 にとっては無風の状態ですから 抵抗感はないでしょうが、神経細胞にとっては 自分の機能が無駄になる訳ですから 不満が残るストレスの状態になります。
ですから、“伸び伸び” とは描かない時の方が、「意識」 の自由度が牽制されますから 神経細胞が汲み上げた全ての情報を 平等に利用できる可能性が多くなり、神経細胞のストレスが “軽減” され、いわば 「全脳的」 な絵画が 生まれ易いと考えます。
 
例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチの 「モナリザ」 や、フェルメールの 「牛乳を注ぐ女」 に世界性があるとすれば、それは ある物が 何であるのかという 『概念』 だけではなく、それと同じ重さの価値を 『距離』 と 『光と陰』 の情報に 極めて 「意識的」 に与えているからなのでは と考えています。
『光と陰』 については、それが神経細胞の本性に及ぼす効能については 想像がつかないのですが、『距離』 については、昨年 テレビの子供向けの科学番組を見ている時、『距離』 を “正確” に測れるのは 一部の猿と 人類だけの特権であると 解説されていて、そのとき “あぁなるほど” と感じたのです。
 
人類の創生期に 人が二足歩行ができる様になり、空いた二本の手で 「手作業」 が始まった時、脳に要請された 最も 緊急な機能の獲得は 『距離』 を “正確” に測る事ではなかったのでは と想像するのです。
そして その様にして獲得された 『距離』 を正確に測るという “能力” は、神経細胞の DNA 中に 〔快楽〕 として 刻み込まれているのでは と想像しています。
神経細胞にとっては 「現実」 の最重要の情報は 『概念』 の情報ではなく、ひょっとしたら 『距離』 の情報である可能性があると 私は感じています。
 
(来週の最終話に続く)

 139    <100回> Bの3 (瑞来記)
更新日時:
2006/10/11
例えば 目の前にりんごがある時、『意識』 が それがりんごである と判断したその瞬間に、りんごは 目の前にある一期一会の具体的な 「そのりんご」 ではなく 「りんご一般」 という “イメージとしてのりんご” にすり替わってしまうらしい現象です。
<再現>を目指して 絵を描こうとする時、大きな障害の一つとして 立ちはだかるのがこの現象だと考えます。
 
何故かと言えば、記憶の中から取り出されたイメージとしてのりんごの姿は 『距離』 も 『光と陰』 も 持たない薄明の 極めて抽象的な 「美しいりんご」 のはずだからです。 それ故に、もし 『意識』 の おもむくままに筆を走らせたとしますと、それは 目の前にある 「そのりんご」 を描いているつもりが、実は 自分の内側に貯えられた 「イメージのりんご」 を描いているはずなのです。 その結果、折角 神経細胞が提供する 『距離』 と 『光と陰』 の情報が、うしろの方に追いやられてしまいます。 ある物が何であるのか特定された時に起こる このプロセスは 『意識』 の自然なあり方と思いますから、今、「自由に伸び伸びと絵を描きましょう」 とか、また 「芸術は爆発だ」 とかのキャッチフレーズに従って 絵を描いたとしますと、「伸び伸び」 するのは 『意識』 ですから、絵は 益々 『距離』 と 『光と陰』 を減衰させて 「りんごのイメージ」=「概念」 に向かって収斂するはずです。
 
勿論、それを良しとするか 悪しきとするかは これも又 最終的には 体質・気質の問題だと考えられますが、この時 描く人が迫られているのは、目の前の具体的な 「現実」 を取るか、「記憶」 として貯えられた その人の生涯のアイデンティティを取るかの選択です。
今まで述べてきたように、私の選択は 「現実」 の方です。 その選択の最初の動機は 「生理」 であることは確かですが、その事に 後から いくらかの根拠づけをすると 次の様な事になります。 
 
(紙面が足りず、まだ Bの5 まで続くそうです・・・みどり記)

 140    <100回> Bの2 (瑞来記)
更新日時:
2006/10/04
絵を描く時、絵を描いているのは 『意識』 ですが、その時の 『意識』 の有り様について考えてみます。
人がある物を見ている時、『意識』 は漫然と ある物を眺めているのではありません。 勿論 ぼんやりと風景として眺めている時もありますが、大抵は 『意識』 は 見ているその物が何であるのかを詮索しています。 目を通して入ってくる沢山の情報の中から 固有の形と 固有の色合いについての情報を 集中的に全力をあげて収集して その情報と類似すると思われるイメージを 記憶の引き出しから取り出して比較検討をし、それが何であるのかを 特定する( ex. りんごだとか、コップだとか )のだと想像しますが、留意しなければならぬのは この段階で 『意識』 は安心立命の心境になって、自分の役目は終わったかの様に 錯覚してしまうことです。
 
ですから その後で 『距離』 や 『光と影』 の情報が必要な時でさえも、仕方なく 『距離』 や 『光と影』 に付き合うという本性を持っていると思います。
 
『意識』 は一つしかありませんから、『意識』 は常に<択一>を迫られていて 必然的に その時一番重要である事柄から 情報を取り入れざるをえません。 そして 日常生活においては “その物が 何であるかを特定する事” が最重要事項になるのは仕方のない事なのです。
ある物が 何であるのかが 特定できない時、いかにパニック状態になるのかは、例えば テレビで時にやっていますブラインドされたタレントさんが 箱に入った物体を手触りだけで特定する時の 恐怖のしぐさにその一端が表されています。 (この場合の直接の恐怖は、無防備に ある物に触れるという恐怖でしょうが、それが 何であるか判っていないために 恐怖が増幅されています)
 
ですから 『意識』 が情報に<価値の格差>をつけるのは自然な事なのですが、やっかいな問題を はらんでいるのは、この先に起こる現象です。 (次週に続く)


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