私が気に入っている 吉本隆明(※)の考え方の一つに 次の様な主旨の意見があります。
『 私(吉本隆明)が、文章とか文芸作品を評価しようとする時、100回くらいは 繰り返し読み込むという努力を 前提としている 』 という 物を計る時の態度です。
実際に 100回読み返す、という事もあるでしょうが、日頃 そういう心構えで 文章や作品に接しているという 『覚悟』 が語られています。 そうする事が、その文章や文芸作品の作者に対する礼儀であり、また そういう手続きを踏めば その文章や作品の本当の姿が 自ずから現れてくる という人間(芸術)観が語られています。
そういった 『見識』 を良しとするか、あるいは 遠巻きにするかの分かれ目は その人の気質とか体質によるものだと思いますが、私の気質と体質は その考え方に 親和的でありました。
「そうか 100回やって判れば良いのか、100回やって出来れば良いのか」 と納得してみると 心に余裕が生まれてきます。 そして その上に 「実際にやってみないと、何が現われてくるか判らないんだから」 というような 予測を超えた物事の展開が起こる可能性が 100回という回数には含まれていますから 自分の能力を値踏みして 不安に陥るということも少なくなります。そのために、随分、人生の切羽詰った状態が緩和されて 暮らし易くなりました。
そんないきさつがあって、吉本隆明の言説は、私にとっては 有難い臨床的 “処方箋” になったのです。
この “100回” という概念は、私の領域で言えばこういう事になるでしょう。
一つ、自分の絵は 100回見返しなさい。
一つ、他者の作品に対する感想は、100回の鑑賞(現実的には印刷物に頼る事になります)の後で なされなければならない。
一つ、私の絵は、他者の 100回の鑑賞に耐えなければ 合格とは言えない。
ところで、私は 今までコラムで 人の目(脳)の情報の処理について、その内容は とてもフラットとはいえない事実があることを 何回か語ってきましたが、まだまだ 100回には程遠いので、今回もまた、飽きずに その辺の事について 感想を述べる事にします。
(※ 1924年生まれ、最近は吉本ばななの父として有名(苦笑))(みどり追記)
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