しかしながら 20年に及ぶ 「勤労」 にもかかわらず、その成果は 微々たるもので 全体の流れを評価すると 「鳴かず飛ばず」 といえる 20年間だったのですが、ところが、ところが、ここ一ヶ月くらいでしょうか、装置が 急激に 私の意図に よく反応する様になりました。 イメージして言いますと、たくさんの穴が開いた袋に 水を注ぎ続けながら 開いた穴を一つ一つと 穴をふさいできましたら、20年目になって やっと 袋に水が貯まる気配が出てきた という情景です。 私が気が付いているもの いないものを併せて まだまだ 現実には たくさんの穴があると考えますが、さしあたっての目標であった 「オーディオとは 振動と重力の克服である」 という 私の意見の証明にはなったのでは と自分一人ですが 嬉しがっております。
オーディオの方は 出発の心構えが<正調>であったのが 幸運でしたが、それに比べると 本家の 「画家」 の方は 出発が野放図であり過ぎたようです。
最近になって、「社会的に 絵画は自立できない」 という命題が 身に沁みてきました。
例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチの 「モナ・リザ」 を意識的に注意を集中して鑑賞するのは 何故でしょうか。 そう 「モナ・リザ」 は、あの レオナルド・ダ・ヴィンチ の傑作で、人類を代表する名画の一枚 であるからという<知識>があるからで、審美眼という 「素手」だけで たくさんの絵画の中から選び取って 興味深く観察している訳ではありません。
私の絵を丁寧に見てもらえる条件は、“この絵は 坂田瑞来さんの絵だからよく見てあげよう” というふうに 個人的に私を知っている人の場合に限られる という事実も確かです。 <最初に知識ありき>というのが、絵画を注意深く鑑賞するための前提であるようです。 そうであるならば、何らかの方法で 画家は肩書きをつけるか、何らかの方法で 画家が名を売るかの方法しか 画家の描いた絵を 十分に深く みつめて貰う 動機は生まれませんから、現状では極めて悲観的な状況です。
「社会的に 絵画は自立できる」 と、私は当たり前の様に思い込んでいましたが、それは ちと脳天気に過ぎたと 少しは後悔しております。
もっとも、そういう事情が判っていたからといって 私が何らかの打開策を講じたとは 考え難い事ですが・・・・・。 (終)
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