COLUMN
いつも ありがとうございます


制作者・・・・坂田みどり(妻 パソコン歴 六年半になります)


 156    老いの繰り言 A (瑞来記)
更新日時:
2006/06/14
6月7日付けの読売新聞の一面に写真入りで “原爆ゲルニカ、復活” という見出しで岡本太郎の巨大壁画の修復作業が終了し、報道陣に公開されたと報じられています。 その続きのコメントには こんな風にあります。
『ピカソがファシズムへの怒りを描いた 「ゲルニカ」 の “原爆版” と称される。・・・(中略)・・・所有する 「岡本太郎記念現代美術振興財団」 は生誕100年の 2011年をめどに常設展示場所を決定。 広島・長崎両市では 市民団体が誘致の署名活動を始め、太陽の塔のある大阪府吹田市も 誘致を目指す』
老いの繰り言@で ぼやいた<芸術的>絵画鑑賞の典型的一例です。
ここでも 例によって その画面が 「美しい」 とか 「美しくない」 とかという判断は 完璧に無視されていて、その絵の図柄が象徴している 「反戦」や 「平和」や 「ヒューマニズム」 といったスローガンに還元されて 絵が価値付けられています。 そして、あの天才ピカソの 「ゲルニカ」 の<崇高>な思想をいち早く理解する事ができた感受性豊かなヒューマニストの一人が 岡本太郎であったというメッセージが多くの人に受け取れるように暗示されています。 一昔前なら 「そんな記事 一切 かかわりのない事で」 という 「庶民」 は いたでしょうし、又、眉唾しながら 「新聞の<教養>に付き合ってやっているのよ」 と たかをくくっている 「庶民」 もいたかもしれませんが、今はそんな 「庶民」 は 殆んどいなくなって、殆んどの人が<教養人>になっていますから、新聞やテレビが仕掛ける この手の波状攻撃はほんとに 深く 静かに 効いてくるのです。 私はそうやって形づくられた<良識>から、長い間に亘って 被害を こうむってきましたから 「チョットそれでは困るんですけれども・・・」 と呟いても 不道徳にはならない立場にいるので、もう一度 くどく 繰り言します。
絵は その画面が何を象徴しているのか、何を暗示しているのか、何を意図しているのか といった画面の背景にある 「何か」 を探り当てて 「安心」 するのではなくて、画面に何が描かれていようが、画面それ自体が美しいか、美しくないか、自分の部屋に飾って眺めていたいか、いたくないか という風な 自分の身体に繋がったところで鑑賞してほしいものです。
花を見ながら、その背後に<美しさ>の根拠を見つけて、それ故に<美しい>と納得する人がいるとすれば、その人は “変人” でしょう。 花は<美しい>から<美しい>ので、その<美しさ>に特別の理由付けは いらないのです。 だからといって 人は花を見る時 “天真爛漫” に 花を見ているかと言えば そうではありません。 習俗や 華道や 茶道や 植物学などの影響を 否応無く受けるはずです。 しかし、花を見る時には 「自然」 に対する親和性という 人類共通の DNA が 人の後天的な諸々の しがらみを中和してくれますから 比較的<自然性>に近い感性で 花を見る事ができると考えます。 ところが、絵の場合は その様な 「自然」 の加護がありませんから、美的判断は 花を見る時に比べると 人為的になります。 絵を見る時にも人類共通の DNA がない訳ではない事は “世界美術史” という概念が成り立っている事に表われていますが、「自然」 ほどには 強力なカンフル剤にはならないでしょう。 そこで 絵を見る時の美的判断は、親譲りの DNA の他に 教育(書物)とか 時代とか 家族や友人とかの 人為的要因によって決定される事になりますから、誰が判断するにしても 何がしかの色合いを帯びて鑑賞せざるを得ない事は事実でしょう。 しかしながら、それにもかかわらず 私には<背後霊>を頼りにして絵をしたり顔で鑑賞するという姿勢は愉快ではありません。
私の理想は、花を眺める様に、絵を眺められる事です。

 157    私にとって『目からウロコ』の出来事 (みどり記)
更新日時:
2006/06/07
先日、他の人にとっては 何でもない事かもしれないけれど、私にとっては 『目からウロコ』 の出来事がありました。
毎月 料理教室の<写真レシピ>(その時に作る 7〜8種類の料理のプロセスや 仕上がった姿を写真撮影したもの)を 義妹が 2003年11月から作ってくれるようになり、2年半にもなると 一年分づつファイル入れに 挿んでいても大量になってきていました。 それで 先日、教室の仲間の人達も その<写真レシピ>の整理に 困っているだろうと考えて、<写真レシピ(専用)収納ファイル入れ>を提供したら良いと思い その旨 義妹にメールしたのですが、返事が今ひとつ噛み合わず、意思の疎通ができていない様に感じていました。 すると義妹から電話がかかってきて 話を聞いてみると 「あぁ、そうだったのか!!!」 と納得しました。
私は、料理教室へ通い始めた 20数年前から ずっと配られていた<作り方レシピ>と、それに比べれば 最近始まった<写真レシピ>は、ず〜〜っと 別々にファイルしていました(写真左)、ところが 義妹は透明ポケット付きのスクラップブックで、開いた片方に “写真” を、もう片方に “作り方” を入れて収納していたのです。 その話を聞いて 『目からウロコ』 『ガッテン、ガッテン、ガッテン!』(笑)・・・・・早速、次の日に 百円ショップでスクラップブックを買ってきて、2003年11月からのスクラップをやり直しました(写真右)。 こうすると、とても判り易くて まとまりもあります。 何で、こんなに当たり前の事に、今まで 気が付かなかったのか?!・・・・・考えてみました。
料理教室に通い始めて20年に余る 『“作り方” だけを単独でファイルする習慣』 が、<写真レシピ>という 周りの状況が変化しても、発想が柔軟に対応できなかった結果です。
この出来事があって、固定観念の怖さが身にしみて(苦笑) 「きっと、他にも気が付かないけれど、発想の転換をすれば、簡単・明瞭なことが あるのだろうなぁ〜」・・・と、私には 考えさせられることの多い出来事でした。


 158    老いの繰り言 (瑞来記)
更新日時:
2006/05/31
ホームページを開いてから、もう三年が近くなると思います。 その間に 私の身体と心は 随分と 老人ぽくなってきたと 最近よく自覚する様になりました。 身体の顕著な変化は 疲れが溜まり易くなって 三日も続けて過剰な労働が続くと すぐに身体が悲鳴を上げてしまいます。 そして心の方も又、許容能力を失って 色々の出来事に傷つき易くなってきました。 心が傷つき易いのは 少年や青年の専売ではなくて 老人も 又 心が傷つき易い世代である事を 身をもって学んでいます。
そんな状態の私が 最近心の許容能力の限界を しばしば 感じさせられてしまう事柄に、日本人の<芸術的>好きの習性があります。 <芸術的>の言葉やイメージが 日々 雨・霰と降り注いできて 拭ってもぬぐっても 身体の奥に沁み込んできて 鬱陶しいこと この上なし の気分です。
いつも同じ感想の繰り返しになりますが、物の姿形の美しさに絶対的な信頼感を持っていたのはギリシアです。 独断になりますが、ギリシアでは恐らく<美しい>という概念は 物の姿形が美しいという要素だけで成り立っていて、人間の感傷的な気分が入り込む余地の無い 明晰なものであったのだろうと考えています。 日本人は そんなギリシアと 対極に生きています。 いつの頃から日本人がそうであったのか、私には知識がありませんが、物の姿形の美しさに対する信頼感の薄さにかけては 世界の最右翼に属するだろうと推測しています。 例えば<美人>という概念をとってみても、女性の姿・形が美しい という事柄とは最も遠い所で それが受け入れられている事にみられる様に<美しい>という概念は 物の姿・形であるよりは、それ以外の 人間の情緒とか 感情とか 習俗とかに 還元されて考えられていて、夜目・遠目・傘の内といった 薄明の曖昧さに収斂していく様に思います。 言葉では表記できない 曰く言い難い 曖昧さと 解り難さを指して<美しい>とか<芸術的>とかという概念を使っていると思えます。 言葉や論理を越える 超人間的なものを<高級>とみなして、それに<芸術的>という概念を当てる 日本人の一般的習俗に対して、本来 そんな力が 私には無い事は判っていても 少しは何か 反論も試みたいと欲求する 今日この頃です。
私の土俵に引き寄せて言えばこうなります。 20世紀になって、写真が発明されて、そこに定着された映像が 一見 日頃 日常的に見ている現実の映像と同じであった事で、多くの人が 写真機の機能と 人の目(脳)の機能が 同じであると早合点してしまった事に、つまづきの元があります。 少し反省してみれば判る様に 人の脳の機能の本当の姿は まだまだ研究され始めたばかりだと思いますから、それが写真機に似ているのか そうではないのかは、まだ証明されていないのです。 <常識>から判断すれば、生まれて まだ100年そこそこの写真と、最も少なく見積もっても 500万年くらいの時間が DNAを介して記憶されている人の脳を無造作に比較するのは 冒険に過ぎるでしょう。 私がやっているヨーロッパ風の<再現>の絵画は、先に述べた 日本人の美学から見れば、“あからさま過ぎるので” それを<芸術的>だと判定するのは 結構 勇気がいるのでしょうが、人の脳に宿っている 100万年単位の時間の記憶の網の目を く ぐっているという観点からいえば、ヨーロッパ風の<再現>の絵画も、その他の形式の絵画も 同じはずなのですから、もう少し安心して<再現>の絵画を鑑賞してもらえると 有難いと思っています。
それにしても、世界中の多くの人が 何故 人の脳の働きが カメラの働きと 同じだと考えてしまったのでしょうか、それが不思議です。

 159    <オーディオの近況> (瑞来記)
更新日時:
2006/05/24
昨年11月 我が家でミニ同窓会を兼ねたプレ個展を催した時に、手土産に T さんの奥様(ピアニスト)より頂いたCDが ブラームスのピアノ協奏曲 No.1 で クリスチャン・ツィメルマンのピアノ と サイモン・ラトル指揮のベルリンフィルハーモニー管弦楽団の演奏でした。 この曲の冒頭は 突っ張り気味の重層したオーケストラの強音で始まるのですが、その冒頭の音が 我が家の装置では “阿鼻叫喚” になってしまって、少々 身贔屓に聴くにしても そう度々は聴く気持ちには なり難い一枚でした。 しかし演奏は “喧嘩腰” と形容してもよい厳格な演奏で 三日に一度くらいは聴きたいと感じる 良い出来上がりであったので、これは “一念発起” またまた、また、装置の改良へ踏み出すより 道がないと 感じたのでした。 “モアベター” を求めて装置を点検しますと 次から次と 改良点は見付かるもので この半年の間で 50ヶ所くらい改良を施しました。 最近は<音>には冷たい家内も 「良くなっていると思うよ」 と表現している程 良くなっているので、本人は “うはうは” の しあわせ状態なのです。 しかしながら、それにもかかわらず 今もって ブラームスの 1番コンツェルト は旨く 鳴ってくれません。 この録音は、我が家の装置の<格>では 少し無理なのかもしれないと 少し悲観的には なっているのですが、全体的に オーケストラ物の解像度が上がって聴こえる様になりましたので、今までの様に 我が家の装置で聴けるのは ソロ楽器の演奏だけという状態ではなくなりました。 それで先日は 所用で京都に出かけた折に オーケストラ曲を 6枚買ってきました。 以下の 6枚です。
 
1. シベリウス交響曲 第 2番 マリス・ヤンソンス指揮 ロイヤルコンセルトヘボーオーケストラ (RCOLIVE RCO-05005)
 
2. ベートーベン交響曲 第 9番 フルトヴェングラー指揮 バイロイト祝祭オーケストラ (OTAKEN RECORDS TKC-301)
 
3. レスピーギ 「ベルファゴール」 序曲 他 ウラディミール・アシュケナージ指揮 オランダ放送フィルハーモニーオーケストラ (EXTON OVCL-00216)
 
4. ラヴェル 《ダフニスとクロエ》 チョン・ミュンフン指揮 フランス国立放送フィルハーモニーオーケストラ・合唱団 (グラムフォン UCCG-1286)
 
5. マーラー交響曲 第 6番 マリス・ヤンソンス指揮 ロイヤルコンセルトヘボーオーケストラ (RCOLIVE RCO-06001)
 
6. マーラー交響曲 第 2番 ピエール・ブーレーズ指揮 ウィーンフィルハーモニーオーケストラ (グラムフォン 00289 477 6004)
 
ヤンソンスのマーラーの 6番 は未聴ですが、その他は 光を通しました。 全般的に “幸福感” のうちに 聴き終える事ができました。 特に シベリウスの 2番 の終楽章での執拗に繰り返されるブラスの哀調を帯びたメロディーは 涙ものです。 たまに、これがあるから オーディオは止められないのでしょうね。 それから拾い物は “第 9” のフルトヴェングラーのバイロイト盤のガレージレーベルの一枚でした。 ライナーノートの謳い文句は “バイロイトの 「第九」 HMV初期 1st フラットプレス 国宝級超ミント盤で発見” とあります。 騙されたと思って買ったのですが<ほんと>でした。 従来の東芝エンジェル盤よりも かなり上等の音質でした。 “超ミント” の意味は判りませんが、オーナーの太田憲志という方に 感謝です。

 160    <切干大根のもどし方> (みどり記)
更新日時:
2006/05/17
「今週のコラムはどうしよう?」・・・と思っている時、たまたま、夕食のおかずの<切干大根・油揚げ・新じゃがの含め煮>を食べた瑞来さんが 「今日の切干大根は、今まで食べた中で 一番、美味しい!」 と言ってくれたので、『 じゃあ、これにしようか 』・・・ということに(笑)なりました。
今回使った 「切干大根」 は “自然派生協” で<無農薬大根使用・天日干し>という 謳い文句の ありがたそうな切干大根だったので、その方に 美味しさの根拠があるのかもしれませんが・・・・・?!
私の通う 料理教室の<切干大根のもどし方>は独特だと思っています。 私は、このもどし方の 切干大根の煮物が 気に入っているので 紹介してみます。
普通は 「たっぷりの水に浸けてもどす」 と思いますが、教室のやり方は、「乾燥した状態の切干大根をボールの中でザッと洗い、水を捨て、ボールの中で 泡が出るまで よく揉みます」 次に、たっぷりの熱湯の中で、サッと茹でて、ザルに取り、軽く絞って、すぐに煮物に使います。 油で炒めて煮ても、そのまま 出し汁で含め煮しても、このもどし方のほうが、適当な歯ごたえと、切干大根の香りがあるように思います。
皆様も 機会がありましたら、ぜひ一度、試してみて下さい。


| Back | Index | Next |


| ホーム | プロフィール | フォトギャラリー | コラム | 掲示板 | リンク集 |


メールはこちらまで。