詩人とか 小説家とかが 紹介される時、その人が創作する作法を 誰に教わったのか、あるいは又 ○○大学の大学院の○○教室の卒業であるとかという様な経歴が、詩や小説を書く上での重要な契機として閲覧されるという事はまずないでしょう。 それは詩や小説というのは 本来<見よう見まね>で書き始めて、そして書き続ける事によって 段々と成熟していくものであって、誰それから直接<対面>で創作の作法を授かって上達するものではない という事を誰もが了解しているからです。
表現の世界で これと対極にあるのが、音楽 特に 演奏の世界です。 クラシック音楽の世界では 演奏者の紹介をする時、その演奏家が大家であるか、駆け出しであるかを問わず、その人が どこの音楽教育機関で、誰から どの様に知識と技術を教わったのか、事細かく 微細に 恭しく語られるというのが常識でしょう。 何故そこまでこだわらなければならないのか 部外者には理解に苦しむ所がありますが、恐らくは 演奏(音楽)に限っては<見よう見まね>で上達する事は不可能なのであって<正しい>指導者が 絶対必要なのだという体験と確信的知恵なのでしょう。 私などは ついつい “そんな事どちらでも良いのに” と呟いてしまう事が多いのですが、<教育>の問題に関していえば この両者の中間にあるのが絵画でしょう。
ある画家が紹介される時、○○大学の院の○○教室に在籍したとか、あるいは画家の○○から個人的に教わったという様な経歴は ほとんどの場合 列挙されるのが普通ですが、それでも音楽に比べればその事実が 絶対欠けてはいけない情報という印象は受けません。 何故そうなるのかといえば、個人によって様々のバリエーションがあるにしても、絵画というものが 詩や小説ほどでないにしても 結局<見よう見まね>に始まり<見よう見まね>に終わってしまわざるをえない特質を持っているからだと考えています。
画家としては 私は今まで<見よう見まね>でやってきましたし、又 今も そうやっておりますが、私の<見よう見まね>の状態を もう少し具体的に説明すれば、他者から受け取る知識や技術よりも 手前の実感や経験を優先させる体質や態度であると言えます。 これをもう一歩踏み込んで言えば “習うより慣れろ” という言葉になりますか。 <習う>というのは、とりあえず、他者の知識や技術や体験を 自分に先立って優先させるという態度ですから、そこから推し測れば<慣れる>というのは、何はともあれ 自分の体験や試行を 全てに先行させる態度だといえます。
世の中で暮らしていく中で “習うより慣れろ” を 初めから終わりまで実践するというのは無理がありますが、絵画というのは 幸か不幸か それを許してもらえる 数少ないジャンルの一つであると思っています。 なぜ幸か不幸かといえば “習うより慣れろ” という態度の 最大の弱点は、人生に間に合うかどうかという危うさを 必然的に持っている事です。 <習えば一分、慣れるに十年>というのは充分考えられる可能性です。 私はもう 35年に及んで絵画に<慣れ>て来ましたが、<習えば 3分>であったとばかりは言えない体験をした と感じています。
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