COLUMN
いつも ありがとうございます


制作者・・・・坂田みどり(妻 パソコン歴 六年半になります)


 161    <第10回 宇摩美術会展> (みどり記)
更新日時:
2006/05/10
父(坂田虎一)のお弟子さん達を中心に、10年前に 「宇摩美術会」 が結成され、毎年一回、5月に作品展が 開催されています。
現在、会員数は 25人位、今回は <十周年記念展> ということで、父を始め、この十年の間に亡くなられた会員の方々の作品も 同時に並べられて、総 100点 の展示がなされる 例年よりも規模の大きな展覧会が 計画されています。
瑞来さんは 「宇摩美術会」 の会員ではありませんが、毎年、会の御厚意で 出品させて頂き、数少ない 公の作品の発表の場となっています。
今回は、父の作品は 大作 50S(正方形)が 2点(「蓮」「芙蓉と猫」)、 8Fが 3点(「新緑の公園」「旅先での風景」「シャケ」)の 計 5点、瑞来さんは 20F を 2点 「ブドウのある静物」 「王林」 を出品致します。
今日が 絵の搬入日で、明日から四日間 開催されますので、お近くの方は、是非、会場へ足を運んで頂ければ 幸いです。 (今日は、絵の搬入時の大雨が心配ですが・・・)
 
会期 : 2006年 5月11日(木) 〜 5月14日(日)
       AM 9:30 〜 PM 5:00(最終日は PM 4:00まで)
 
場所 : 四国中央市 福祉会館 4F 大ホール

 162    “習うより 慣れろ” (瑞来記)
更新日時:
2006/05/03
詩人とか 小説家とかが 紹介される時、その人が創作する作法を 誰に教わったのか、あるいは又 ○○大学の大学院の○○教室の卒業であるとかという様な経歴が、詩や小説を書く上での重要な契機として閲覧されるという事はまずないでしょう。 それは詩や小説というのは 本来<見よう見まね>で書き始めて、そして書き続ける事によって 段々と成熟していくものであって、誰それから直接<対面>で創作の作法を授かって上達するものではない という事を誰もが了解しているからです。
表現の世界で これと対極にあるのが、音楽 特に 演奏の世界です。 クラシック音楽の世界では 演奏者の紹介をする時、その演奏家が大家であるか、駆け出しであるかを問わず、その人が どこの音楽教育機関で、誰から どの様に知識と技術を教わったのか、事細かく 微細に 恭しく語られるというのが常識でしょう。 何故そこまでこだわらなければならないのか 部外者には理解に苦しむ所がありますが、恐らくは 演奏(音楽)に限っては<見よう見まね>で上達する事は不可能なのであって<正しい>指導者が 絶対必要なのだという体験と確信的知恵なのでしょう。 私などは ついつい “そんな事どちらでも良いのに” と呟いてしまう事が多いのですが、<教育>の問題に関していえば この両者の中間にあるのが絵画でしょう。
ある画家が紹介される時、○○大学の院の○○教室に在籍したとか、あるいは画家の○○から個人的に教わったという様な経歴は ほとんどの場合 列挙されるのが普通ですが、それでも音楽に比べればその事実が 絶対欠けてはいけない情報という印象は受けません。 何故そうなるのかといえば、個人によって様々のバリエーションがあるにしても、絵画というものが 詩や小説ほどでないにしても 結局<見よう見まね>に始まり<見よう見まね>に終わってしまわざるをえない特質を持っているからだと考えています。
画家としては 私は今まで<見よう見まね>でやってきましたし、又 今も そうやっておりますが、私の<見よう見まね>の状態を もう少し具体的に説明すれば、他者から受け取る知識や技術よりも 手前の実感や経験を優先させる体質や態度であると言えます。 これをもう一歩踏み込んで言えば “習うより慣れろ” という言葉になりますか。 <習う>というのは、とりあえず、他者の知識や技術や体験を 自分に先立って優先させるという態度ですから、そこから推し測れば<慣れる>というのは、何はともあれ 自分の体験や試行を 全てに先行させる態度だといえます。
世の中で暮らしていく中で “習うより慣れろ” を 初めから終わりまで実践するというのは無理がありますが、絵画というのは 幸か不幸か それを許してもらえる 数少ないジャンルの一つであると思っています。 なぜ幸か不幸かといえば “習うより慣れろ” という態度の 最大の弱点は、人生に間に合うかどうかという危うさを 必然的に持っている事です。 <習えば一分、慣れるに十年>というのは充分考えられる可能性です。 私はもう 35年に及んで絵画に<慣れ>て来ましたが、<習えば 3分>であったとばかりは言えない体験をした と感じています。

 163    新作<アンティックドール(6F)>できました (みどり記)
更新日時:
2006/04/26
今回は、昨年12月の展覧会の時に 好評だった<アンティックドール>を描いてみました。
モデルを組んで 立ち上がりの一週間は、いつものように “ナマモノ(果物)” との時間の戦いです。 この期間は、突発の用事や来訪者が ない事を祈り、夫婦ゲンカも なるべくしないように、私も 日頃の自己主張は ちょっと控えて(笑)、瑞来さんが心穏やかに過ごせる様、心掛けます。 それで “ナマモノ” の部分が一段落したら、ホッとします。
後は ゆっくり瑞来理論(?!)に沿って 描き込んでいきますが・・・・・最近、益々エスカレートしてきた瑞来理論で 『乾坤一擲(けんこんいってき)』 (?)の緊張度合いが高くなってきている様子です。
そんな時、緊張をほぐしてくれるのが、プロ野球ジャイアンツの好調です。 今春 ケーブルTVに加入したお陰で、野球中継が 大抵 最初から最後まで 心おきなく見えるようになり、今、ジャイアンツが好調で、瑞来さんのストレス解消に 一役・二役 かってくれていて有難いことです。

 164    <料理教室の小さな器たち> (みどり記)
更新日時:
2006/04/19
4月は新学期の季節、私が長年 “食べるのを楽しみに” 通う 料理教室にも新入生が三人増えました。
最高年齢 80才から、最若手で 35才位で、平均年令は高い(私でも若手(?)と言われる)クラスです(笑)。
 
教室の先生は、毎月初めに 東京へ料理の勉強に行かれ、その都度、築地で食材の調達をされ、食器も色々買って来られます。
先月 3月の料理の時、ニューフェイスの器で 桜模様の長皿に 3個の表情の違う可愛らしい小さな器が置かれ、それぞれに春の和え物が盛り付けられました。 思わず欲しくなって、先生にお願いしたら、今月の料理の日には もう取り寄せて下さっていました。
今までに、手に入れた小さな器たちを 一同に並べて 記念撮影をしてみました。 築地発の食器なので、どれも手頃で、日常使いに遠慮がありません。 小さな器ひとつで 食卓に季節感と華やかさを添えてくれて、和え物、酢の物の “料理” でなくても、佃煮・漬物・プチトマト・チョコレート・金柑の甘露煮、etc. etc. ・・・時には、花を一輪 浮かべたり・・・便利です。

 165    「乾坤一擲(つづき)」 (瑞来記)
更新日時:
2006/04/12
ところで タッチの持っている現実は 今 述べた光学的な事実だけではなくて と言うよりも普通一般には むしろ次の様な特徴を主要な働き と考えられているのではないでしょうか。 それは作者が描いている時の 呼吸とか 筋肉の動き 又 緊張感とか 意志力、また逡巡とか 不安などを 自ずから表すものとしてのタッチです。 この場合、作者と画面上のタッチとの関係を そうそう具体的に解説できるとは思いませんが この側面から観た時も 『牛乳を注ぐ女』 に限った事ではないのですが、フェルメールのタッチは 感嘆に値するものです。 端的に言えば ほとんどのタッチが 「乾坤一擲」 のメッセージを 私たちに送りつけてきます。 最後の最後の土壇場で、どう覚悟すれば、けっこう濃い目に溶いた絵具を 「えい!!」 と 画面に乗せられるのか、尋ねてみたいものです。 私の体験から察するに 「死刑になるつもり」 で<強行>するのでしょうが・・・。
『牛乳を注ぐ女』 の筆さばきは どこを観ても敬意を払いたくなる表情をしていますが、私が特に印象深く 「へぇ〜」 と驚いて観ている場所があります。 赤いミルク壺の取っ手を握って身体の前に出された右手と エプロンをつけた胴体と 赤いミルク壺の 三者に囲まれた細長い隙間の描写です。 後ろの壁が描かれているはずの場所ですが 後の壁の暗さとは違和感を生じている明るめの色彩で描かれていて 「逡巡」 にしてなおかつ 「乾坤一擲」 と形容したい筆さばきです。
それからもう一ヶ所。 これはフェルメールが意図的に描いたのかどうか 判断に苦しむものですが、ミルク壺を下から支えている左手の手首に接した下側の部分で エプロンのしわを描いているかの様に見えなくもない すごくあいまいな色合い。
このコラムを読まれた方も、一度 画集を開いて確認してみて下さい。
<それでどうなる>というものではありませんが。



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