COLUMN
いつも ありがとうございます


制作者・・・・坂田みどり(妻 パソコン歴 六年半になります)


 176    <視覚と聴覚 そのB> (瑞来記)
更新日時:
2006/01/25
オーディオ装置の前に座っている時、前にある左右のスピーカーに付いている 高音・中音・低音 の合計 6つ のスピーカーユニットから出る音が脳幹の中でどう合成されて<一つの音源>として了解されているのかと考えると、聴覚も又<不思議の世界>だと いつも感心しています。
しかし、同じ不思議の世界でも 視覚と聴覚 とでは基本的な本性が異なっているのかなぁ と考える時が まま有ります。
例えば、盲目の画家は考え難い存在ですが、耳の聴こえない音楽家には 例外中の例外 でしょうが、ベートーベンがいました。
あるいは又、名画を見せて人を癒すという具体的プログラムはまだ見聞きしませんが、モーツァルトの音楽が人の心を癒すという風説は しばしば耳にする情報ですし、自分の経験から推し量っても、疲れて帰宅した人が 好みの音楽を聴いてホッと安らぐという現象はかなり一般化できそうに思います。 ヨーロッパの教会などでは 絵画と音楽 は等分に人をその気にさせる雰囲気作りに一役買っておりますが、それでは室内に飾られた絵を日々眺めて暮らしている場合はどうでしょうか?。 私自身も殆んど毎日フェルメールや、レオナルド・ダ・ビンチ の絵を眺めて過ごしていますが、心の奥底まで画家の英知の何かが届いて来るというのは滅多には起こらない様な気がしています。 神経細胞を和らげるとか、あるいは逆に興奮させるとかという様なレベルの刺激力の話になると、私の場合は バッハやベートーベン の方がより直接 意識に情報が届き易いのではと感じています。 そしてこの現象は、かなり一般化できるのではないかと 都合よく考えています。 それを認めるとすれば、こんな事が<想定>できます。
この現象を そのまま 勝手に解釈しますと、耳からの情報が辿る回路の方が、目からの情報が辿る回路よりも、意識に届くまでの途中で失われる情報の<目減り>が少ないという事になるのですが、どうでしょうか? あるいは又こうも解釈できるのですがどうでしょうか?
神経細胞が送り込む情報に対して、耳の場合は 意識がうまく適応できるので神経細胞と意識が親和的な関係にあるのですが、目の場合は 神経細胞が送り込む情報に対して 意識がうまく適応できなくて神経細胞と意識の間にそごが生じて両者がギクシャクするという風に・・・
目からの情報がどう処理されるのか 妙に こだわりますのも、ヨーロッパ以外の文化や民族が実現できなかった音楽(聴覚) をシステム化するという行為を見事にやってのけたヨーロッパの思考形式をもってしても、絵画(視覚) をついにシステム化する事ができなかった という事実を事あるごとに残念に感じているからです。 そして何故そうであったのか、自分自身が 納得できる様な理由付けができないものか 時々考えているからです。 (終)

 177    <視覚と聴覚 そのA> (瑞来記)
更新日時:
2006/01/18
その番組のタイトルは判らないのですが、例によってチャンネルを “カチャカチャ” やっている時に、たまたま 養老孟司が クリームシチューを相手に 何やら講義をしている場面に出くわしました。 人体標本 (チョット驚きました!) をスタジオに持ち込んであれやこれや早口でしゃべっていましたが、その中で大変判り易い言葉を発言していて、その内容が私の興味を引いたので、うろ覚えですがその主旨を報告しますと凡そこんな風であったと思います。
<人は 宇宙ロケットや ロボットや パソコンなどの高度の物を造るけれども結局人が造る物というのは簡単で単純な物なんです。 人は簡単で単純な物しか造れないのです。 複雑な物は 自然(地球) にしか造れないのですよ>
彼は人体標本を眺めながら そう啓蒙していたのですが、それを聴いた時に私は 「あぁそうなのか、写真は人の目のロボットなのか」 と合点したのです。 そして この考え方が私は気に入りました。 ホンダや トヨタが実験している ロボットと人体の間では 特に適応性・自在性・柔軟性などにおけるレベルの桁の違いは誰にも了解できる事実ですが、残念ながら 写真と人の目の違いはそれほど判り易くはありません。 しかし本当のところは、ひょっとしたら、人体とロボットが違っている程 適応性・自在性・柔軟性が 写真と人の目では違っているのでは、と思うのです。 体験に基づけば、人の目の映像は変幻自在の不思議に満ちた世界ですから、その相似形を人間が造りだせるとは、養老孟司でなくても思えません。 やはり 地球(自然)にしか造りだせないものと考えるのが良いと思っています。 ということは 人間が造りだす事の出来た写真は 結局は人の目のロボットのレベルを超える物ではないはずなのです。 (つづく)

 178    <視覚と聴覚 その@> (瑞来記)
更新日時:
2006/01/11
「ステレオサウンド」 というオーディオ誌に村上春樹が 「音楽のある場所」 をいうエッセイを断続的に連載しています。 私は小説音痴なので彼の小説を読んだことがありませんが、音楽体験をうんちくを混じえながら楽しそうに語られると 「そうですよね、私もそうなんですよ、でも貴方は私よりはチョットだけ物知りですよね、拝読させて頂きます」 と、妙に慣れなれしく 親しく感じるのです。 特に 「日曜日の朝のプーランク」 という講説は楽しく かつ為になる読物でした。 それではと、絵具を買うついでに立ち寄った岡山のCD店で 彼が推奨していたプーランクのピアノ曲を探してみましたが一枚も見当たりませんでした。 「岡山の近くには音楽大学もあるのだから、一枚ぐらいあってよ」 と毒づきながら帰って来ましたが、それ以後プーランクの事は忘れていてプーランクはまだ聴いておりません。
それはさて置いて、音楽について語る時は村上春樹のような精妙な文章ではなくても、誰が感想してもそれなりに “幸福感” が伝わってくるものです。 それは音楽評論を本業としている吉田秀和のような専門家の文章からさえも漏れてきます。 不思議な気がします。 何が不思議なのかと言えば絵画論や 絵画鑑賞体験談からはそのような “幸福感” が 中々伝わってこないものです。 音楽とは逆に、誰が語っても どことなく暗くて ややもすると わざとらしい したり顔の印象になり易いのです。 何故なのでしょうか、絵画は愉快に 快活には語れないものなのでしょうか。
私は最近になって (写実)絵画が何故成立するのか という問いの解答の端緒を非常に直観的レベルですけれども気付き始めています。 もう少し簡単に言うと 人の目の映像と 写真の映像は決定的に何かが違っている事を確信するようになりました。
その事について、年末にTVを見ていて 「あっ、そうなのか!」 という出来事がありました。

 179    <“塩引き鮭”のバラ寿し> (みどり記)
更新日時:
2006/01/04
明けましておめでとうございます。
今年、最初のコラムは私らしく(笑)食い気の話題から始めたいと思います。
年末に、新潟県村上の本場の<塩引き鮭>を一匹丸ごと頂きました (新巻き鮭とは少し製法が違うようですが、詳しくはインターネット 「新潟村上・塩引き鮭」 で検索して見て下さい)。 例年、届けて下さるのですが、去年は12月に寒波が続いたので、一段と美味しい<塩引き鮭>でした。 それでも焼いて食べるだけだと単調になるので、その シッポの方を焼いて身をほぐして 「鮭のバラ寿し」 を作ってみました。
四国の人にとっては非常にポピュラーな 「バラ寿し」 は、通常、瀬戸内海で獲れる海老じゃこ(3〜5cmの小海老) と一緒に、蓮根・ごぼう・人参・干し椎茸と 季節の野菜など(竹の子・フキ・枝豆・黒豆・栗・四国中央市では里芋も!) を細かく切って味付けして煮た具と酢飯を “混ぜ合わせたもの” ですが、今回は海老じゃこは入れずに野菜だけ出し汁で煮て味付けし、酢飯と混ぜ合わせる時、焼いた塩引き鮭のほぐした身を混ぜ込みました。
この 「バラ寿し」 は、どうも郷土食らしくて、全国どこにでもある 「お寿し」 ではない・・・というのを、最近、気がつきました。 全国的には、酢飯の上に別々に煮た具を “のせる” 「ちらし寿し」 の方が、主流のようです。
四国では、お祭り・誕生日など祝い事から、葬式・法事の仏事の時も、行事の時は いつでも 「バラ寿し」 が登場します。
 

 180    <年末の手紙> (みどり記)
更新日時:
2005/12/28
今年も余すところ四日間となって、皆様、如何お過ごしですか?
年賀状は、間に合いそうですか? 私は 年賀状はお正月になってから 取り掛かることにして(苦笑)、今はとにかく 展覧会へ来て下さった方々への御礼状の発送を年内に済ませたいと頑張っています (こうなると 600人は、巨大な数字です)。
展覧会の後、一週間は緊急を要する事後処理に追われて右往左往しすぎた結果、食いしん坊の私としては一番堪える、何も食べられない状態の 「鬼の霍乱」 を招くこととなり、体調不良のまま仕方なく 一ヶ月一度の実家の手伝いに行ったのですが、今回ばかりは何時もとは逆に、私が介護されて元気を取り戻して帰ってきました (PCを四日間も休んだので、脳の方もヤレヤレ助かったと感じたようです(笑))。 その甲斐あってか、4〜5日前からは、食欲も元通り、お陰様で元気になりました。
少しづつは展覧会の後始末も片付いてきて、芳名帳で確認しながら、私方から案内状を出した方で会場へ来て下さった方々へ 写真(会場でのスナップ) と挨拶状を送るのが、昨日やっと一段落しました。
そこで、つい欲が出てしまって、次は、口コミや新聞を見て、地元をはじめ 遠くは新居浜・松山・大洲から全くフリーに展覧会に来て下さった方々へも御礼状をお送りしたいと思って、芳名帳を見ながら、PCの<筆王>の中に 「2005年展覧会」 のフォルダを作って、新しい住所録を作成中です。 番地まで書いて下さった方は良いのですが、町名だけの方は困ってしまいます。 それでも、四国中央市の人の場合は、四国中央市の電話帳・住宅地図・郵便番号簿を活用して、どうにか今日は展覧会初日の 12月1日と 2日の分が終わった所です。
先は遠いのですが、一歩一歩 前に進んでいたら、今年中には発送できるのではないかしら?!・・・・・と、希望的に考えています。


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