オーディオ装置の前に座っている時、前にある左右のスピーカーに付いている 高音・中音・低音 の合計 6つ のスピーカーユニットから出る音が脳幹の中でどう合成されて<一つの音源>として了解されているのかと考えると、聴覚も又<不思議の世界>だと いつも感心しています。
しかし、同じ不思議の世界でも 視覚と聴覚 とでは基本的な本性が異なっているのかなぁ と考える時が まま有ります。
例えば、盲目の画家は考え難い存在ですが、耳の聴こえない音楽家には 例外中の例外 でしょうが、ベートーベンがいました。
あるいは又、名画を見せて人を癒すという具体的プログラムはまだ見聞きしませんが、モーツァルトの音楽が人の心を癒すという風説は しばしば耳にする情報ですし、自分の経験から推し量っても、疲れて帰宅した人が 好みの音楽を聴いてホッと安らぐという現象はかなり一般化できそうに思います。 ヨーロッパの教会などでは 絵画と音楽 は等分に人をその気にさせる雰囲気作りに一役買っておりますが、それでは室内に飾られた絵を日々眺めて暮らしている場合はどうでしょうか?。 私自身も殆んど毎日フェルメールや、レオナルド・ダ・ビンチ の絵を眺めて過ごしていますが、心の奥底まで画家の英知の何かが届いて来るというのは滅多には起こらない様な気がしています。 神経細胞を和らげるとか、あるいは逆に興奮させるとかという様なレベルの刺激力の話になると、私の場合は バッハやベートーベン の方がより直接 意識に情報が届き易いのではと感じています。 そしてこの現象は、かなり一般化できるのではないかと 都合よく考えています。 それを認めるとすれば、こんな事が<想定>できます。
この現象を そのまま 勝手に解釈しますと、耳からの情報が辿る回路の方が、目からの情報が辿る回路よりも、意識に届くまでの途中で失われる情報の<目減り>が少ないという事になるのですが、どうでしょうか? あるいは又こうも解釈できるのですがどうでしょうか?
神経細胞が送り込む情報に対して、耳の場合は 意識がうまく適応できるので神経細胞と意識が親和的な関係にあるのですが、目の場合は 神経細胞が送り込む情報に対して 意識がうまく適応できなくて神経細胞と意識の間にそごが生じて両者がギクシャクするという風に・・・
目からの情報がどう処理されるのか 妙に こだわりますのも、ヨーロッパ以外の文化や民族が実現できなかった音楽(聴覚) をシステム化するという行為を見事にやってのけたヨーロッパの思考形式をもってしても、絵画(視覚) をついにシステム化する事ができなかった という事実を事あるごとに残念に感じているからです。 そして何故そうであったのか、自分自身が 納得できる様な理由付けができないものか 時々考えているからです。 (終)
|