私は大学時代、美術史を勉強する学科にいました。
当時、自分の将来に具体的なこれといった “あて” があった訳ではありませんが、美術史家になろうとは考えておりませんでした。 当然の事ながら学生の多くは美術史で身を立てるつもりで入学していますので真面目に勉強する人の方が多いのですが、私を含めて少数の学生は勤勉には勉強しませんでした。 そのせいで私は当時も今も美術史の知識や見識が身に付いているという感覚はありませんが、それにもかかわらず昨今 自分の過去を振り返ってみる時、私がいっとき美術史を学ぶ学科にいたという経験が現在の私の絵の表現の在り方に、影を落としていると自覚しています。
ところで美術史の学科には密かに流布されている暗黙の了解事項があると私は思っています。 それは 「古い物ほどねうちがある」 という ア ウン の “信仰” です。
日本を例に挙げるとこうなります。 昭和よりは明治、明治よりは江戸後期、江戸後期よりは江戸中期、江戸中期よりは江戸初期、江戸初期よりは安土桃山、安土桃山よりは室町、室町よりは鎌倉、鎌倉よりは平安、平安よりは天平、天平よりは白鳳飛鳥といった具合に歴史時代を 「飛鳥」 まで遡っていく “価値” です。
この<信仰>は感染力が強いですから、やがて私もそれの “患者” になって<美術史家の一員>になりますが、その頃を見計らって奈良・京都を巡る古美術研修旅行が催されます。 そんなつもりで見ればそんなに見えてしまうのが人間の自然性ですから、なるほど “日本では” 飛鳥白鳳が 「華」 かと納得してから大学を卒業する事になります。 飛鳥白鳳の美術品がよろしいという審美学は、例えば 「夢殿観音はいいですね。 日本の美術品にしては風格がありますよ」 と言っておけば人を煙に巻くのに都合がよいだけではなく、それ以上に審美上の “ひきこもり” ができる 「部屋」 を与えてくれる事が最大の利得といえます。
例えば ゴッホと ピカソが異様な人気を誇るアメリカ風「天才主義」 とか 「お宝拝見」 などでしばしば見掛ける昭和・大正・明治期の画家の 「大家」達といったもろもろの臨床的美学に取り囲まれた時 “ひきこもり” を実践して 「災難」 を逃れるのに十分強度のある 「盾」 になってくれる事です。
私の「美学」 が無傷で今まで生き延びている大きな要因の一つであろうかと考えています。
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