先月、実家へ手伝いに行った時のこと、父の腕時計が止まって電池交換しても動かず、時計屋さんからは 「修理するのに時間と費用がかかります」 と言われましたが、父は、一週間後のショートステイに出かけるまでに欲しそうに言うので、私が 「100円ショップで見た記憶があるので、とりあえずのを探してあげる」 と三島へ帰ってから、早速、近くの三ヶ所の100円ショップへ探しに連れて行ってもらいました。
運良く、最初のお店で適当なのが見つかりました(写真右側)。 さすがに、100円ではなく500円でしたが、目のうすい父にも見え易そうな文字盤で、瑞来さんと二人 「これは良い! 喜ぶよ」 と、意気揚々と実家へ送りました。
ところが 「めでたし、めでたし」 とは行きませんでした。 思わぬ所に落とし穴がありました。 大正生まれの父も母も 「100円ショップ」 の<すごさ>を全く知らなかったのです。
世の中では 「100円ショップ」 の市民権は十分ありますがありますが、父や母は未だ一度も行ったことがなく、ひと昔前の 「安かろう、悪かろう!」 「安物買いの銭失い!」 を、かたくなに信じているのでした。 ・・・・・さすがに娘の私も想像がつきませんでした。
暫くした時、電話の最中、母がポロッと 「今日、呉のDEO DEOで時計を探したら、本店でしか扱ってないそうで・・・」 と言うのです。 「何で? この間の時計は?」 と聞くと、「ショートステイ中に止まった」 「途中、一度動いたが、また止まった」 「電池が切れた」 etc. etc. と 時計の不満ばかりです。
そんなはずは無いと思いながらも、送り返してもらってみると、どこも壊れていません。 時間を合わせると正確に時を刻みます。
結局、両親共 “500円の時計は正確に動いているはずがないという思い込み” と、哀しいかな目のうすい父が文字盤の針がくっきり見えないので正確な判断を下せず、触らなくてもいいリューズを触って (リューズを引っ張ったままだと止まります) いたのだろうと思います。
この<100円ショップの腕時計>を巡ってのてん末は、世の中の流れから隔絶して暮らしている両親の<常識>のために、私達の善意が善意として受け取ってもらえなかった、チョット淋しい事件でした。
(因みに、左の時計は瑞来さんので 「300:1」 いかに100円ショップはコストパフォーマンスが高いか!)
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