COLUMN
いつも ありがとうございます


制作者・・・・坂田みどり(妻 パソコン歴 六年半になります)


 221    ダイヤモンド婚式(結婚60周年) (みどり記)
更新日時:
2005/03/23
先日、実家の父が急に思い出したように、母に 「金婚式を迎える夫婦は時にいるが、結婚60年になると少ないよな」 と言ったそうです。
私も実家の両親が金婚式を迎える時にはしっかり憶えていましたが、最近は、父が一年前から車椅子生活になり、父と母の二人だけの老々介護の日々となると、海を隔てた私は、一日一日を無事クリアしてもらうのを願うのが精一杯で、母も、私もそんな事は全く(!)忘れていました。
そう言われてみると、まわりを見回しても<ダイヤモンド婚式>を迎えられた御夫婦は、中々いらっしゃいません。
それで、改めて気がつきました。 瑞来さんの両親も、2000年3月に義父が亡くなるまでの62年間、普通の夫婦以上に濃密な関係の共同生活者でした。 双方の両親が<ダイヤモンド婚式>を迎えられるというのは、とても、めずらしい事のように思われます。
晩婚だった私達は、銀婚式は無事クリア致しましたが、金婚式までは、まだまだ先の話です。 どんな人生が待っているのでしょうか。

 222    <江戸好み> (瑞来記)
更新日時:
2005/03/16
父・虎一の友人にM 小父さんという方がいらっしゃいました。 M 小父さんは上京してから業界誌の新聞社を設立して成功された方で、画家として立って行こうと考えていたまだ二十歳くらいであった父を東京へと呼び寄せてくれたのも彼でした。 父とはそれ以来の付き合いで 「♪〜親の血を引く兄弟よりぃも〜堅い契りの・・・」 と形容できる間柄でした。
ところで高等学校を卒業した私は、予想通りに大学受験に失敗して予備校に通う事になったのでしたが、当時の住宅事情から適当な下宿が見つからないままに、結果的に三ヶ月くらいの間、そのM 小父さんのお宅で御厄介になってしまいました。 今では考えられない出来事ですが、その当時は親類縁者知人にお世話になるというのが、そうひどい非常識ともいえないような牧歌的空気がまだ残っていたと思います。 それにしても当時の常識を考慮してもM 小父さんの奥様と御家族方には、今では考えられないくらい良くして頂いたのですが、特に印象深く記憶に刻み込まれているのが食事の美味しさでした。 夕食は御家族五人と会社の編集者の人二〜三人に住み込みのお手伝いさん二人、それに加えて入れ替わり立ち替わりやってくる親戚や知人の訪問者が一人くらいはいて、それに私と総勢10人くらいの賑やかな食事となるのが平均的であったと記憶しています。 料理は奥様と住み込みのお手伝いさん二人による贅を尽くしたお惣菜で、世の中にこんな美味しいものがあるのかと、よく感嘆したのでした。 時には出前による食事もあったのですが、その中ではステーキ屋からの鉄板のお皿に乗ったまだ温もりの残ったステーキの出前と、うなぎ屋からの出前された “うな重” の味をよく憶えています。 特に後者の丼ではなく箱の中に入っていた江戸風に調理された生臭みのないとろける様なうなぎの感触は忘れ難いものでした。 しかし今回私が本当に触れたかったのは朝食についてなのです。 奥さんが目の前の火鉢の炭火 (純正備長炭?) で炙ってくださった焼海苔の味も、胡瓜と大根と茄子の糠味噌漬けの味も、その後スタンダードの一つに考えているほどの美味しさであったのですが、それよりももう少し強く琴線に触れたのが味噌汁でした。 具はとろっとなるまで煮た玉ねぎと豆腐と若布であったと思いますが、私が心の中で思い描いていた理想の味がしたのです。 その味噌汁の味を筆頭にM 小父さん宅で御馳走になった食事の味は脳の奥深く沁み込んだのでしたが、何故そこまで美味しかったのか、その理由には、単に素材が一級品であり、料理法が練達であったという当たり前の根拠だけではなく、その裏にある秘密が隠されていた事に気がついたのは、それから40年以上も経った最近のことでした。
それが何時であったのかもう忘れているのですが、ある時ふっと自分が “0才から3才までの幼児期” を東京で過ごした事を思い出したのです。 東京時代の記憶は全く私には有りませんでしたから、M 小父さん宅の食事の美味しさと自分の生まれ育ちを結びつける知恵が浮かびませんでした。 それにしても うかつな話です。 これからは私の推測による 「〜らしい」 話になります。 父と母は私が生れた頃、絵の関わりからある軍需会社の少し古びた迎賓館を兼ねた様な寮 (ここは40才くらいの時一度再訪してみました) に住んでいました。 そこには住み込みのまかない婦さんがいて、その方が食事の準備をしていたらしいのです。 察するに、きっとその方が東京育ちの人であったのでしょう。 私がM 小父さん宅の味噌汁に出逢った時おそらく私は、15年間の空白を飛び越えて “三つ子の魂百まで” を身をもって体験していたのです。

 223    都はるみの 「涙の連絡船」 (瑞来記)
更新日時:
2005/03/09
テレビの歌番組などで 「私の青春の一曲」 といったタイトルをつけてゲストの思い出の曲が歌われるという趣旨の番組があった様に何となく印象しているのですが、私がそんな番組にゲストとして呼ばれたとしたら、さしづめ上記の歌をリクエストする事になると思います。
都はるみの 「涙の連絡船」 が発表されたのは1965年らしいので、もう40年も昔の話ですが、それ以来1976年に 「北の宿から」 がヒットするまでの12年間は、私は彼女の歌の熱心な視聴者でした。 1965年当時、私は学生で京都にいたのでしたが、都はるみが京都の出身であったせいでしょうか、私がよく出入りしていた下宿の近くにあるパチンコ屋さんでは定番の 「軍艦マーチ」 と並んで 「涙の連絡船」 がよくかかっていました。 それでおのずから、この曲が身に浸み込んでしまったのですが、彼女自身の表現を借りて表記すると (五木寛之・都はるみ対談集 「長い旅の始まり」東京書籍(147p)) 「♪汽笛いが」 「汽笛いが」 「汽笛いがァ」・・・と歌われるくだりの節回しは、今聞いても(私には)説得力があります。
V 「汽笛いが」 V 「汽笛いが」 V 「汽笛いが」 V と矢継ぎ早につかれる息つぎの鼻に抜けかかる 「フハッフ」 という息音が切迫感を演出していて 「ウーーン・・・」 と思いながらCDを聴きます。
それまでもそれぞれの時代に流行った歌は沢山の数、今も覚えていますが、自覚的に歌謡曲を聴いたのはこれが最初でした。 田舎育ちの文化については無知であった青年がようやく自意識に目覚め始めた時で、当時、私が<高級>だと感じていたクラシック音楽のベートーベンの “運命”交響曲や、チャイコフスキーのピアノ協奏曲1番やラフマニノフのピアノ協奏曲2番等の定番の名曲、そしてまたジャズメッセンジャーズの 「モーニン」 やマイルスデイビスとギル・エヴァンスが演奏した 「アランフェス協奏曲」 (同志社大学の近くにあったジャズ喫茶店に座っていた大型タンノイのスピーカーから流れていたギル・エヴァンスが率いるバンドのブラスのハーモニーの浸透的でシルキータッチな音色は今も耳に残っています。 残念ながら、我が家の装置で聴く復刻CDでは、あの美音は甦ってきません) 等の“モダンジャズ”、それに加えてその頃話題であった映画 「ウェストサイド物語」 のサウンドトラック等に混じって 「涙の連絡船」 もまた粋がって聴かれたものでした。 その当時は、目の前に屹立する<人生>を見上げて、手がかりもなく、なすすべもなく途方に暮れて佇ずみ無為に過ごすしか方策のない日々であったのですが、その薄明の生活に少しだけ光を与えてくれたのが 「涙の連絡船」 であったのです。 私の人生も終盤にさしかかっていますが、人生の中で、時にシンクロナイズドできる一曲と出逢えて幸運であったと思います。

 224    <坂田瑞来のHP>にアクセスして下さる皆様へ(みどり記)
更新日時:
2005/03/02
2003年7月に、初めてこのHPを開いてから1年8ヶ月・・・毎日アクセスして下さる方、一週間に一度の方、一ヶ月に一度の方、たま〜〜ぁに思い出した時(笑)の方、また、今日初めてアクセスして下さった方・・・・・HPを見て下さって、ありがとうございます。
皆様がアクセスして下さった積み重ねで、アクセス数のカウンターがもうすぐ四桁から五桁へ変わります。 HPの制作者としては感慨があります。
 
2003年の3月末、我が家にPCが届いた日から、まだ2年が経っていないとは思えない程、PCを通じての変化は色々ありました。
瑞来さんの数少ない(笑)旧友との交流、私の学生時代の友人達との青春(笑)復活、PC友達が広がったこと・・・・・衣・食・住の買物から、情報の収集・・・・・PCを開かない日はありません。
<HP>に限って言えば<新作できました>をもう少し頻度高く したい所ですが、これは、私の努力だけでは、どうしようもないので・・・(笑)
思い出としては、去年7月、HPを開いて丁度一年目に、突然インターネット上から<HP>が消えてしまった時には、さすがに慌てました。 PCの先生の助けを借りて、無事、復活できましたが、この原因は 「私がエラソ〜〜に一人で “ウィルスチェックのソフトの更新” を勝手にやってPCのソフトのバランスを崩したから(?)」 と反省しています。 それからは 「PCは、なるべく日頃やらないことには手を出さない」 と自戒しているのですが、気がゆるむと 「つい」 ・・・やってしまいます(笑)。
一年前に<掲示板>を<画像掲示板>にリニューアルしてもらってからは、ますます見て下さる方々と輪が広がり、楽しくなってきました。
 
これからも、皆様に<坂田瑞来のHP>へ訪問頂き、気軽に<掲示板>へも参加して頂くのを楽しみにお待ちしております。
今後共、よろしくお願い申し上げます。

 225    <再現>について そのZ(画面とは何か) (瑞来記)
更新日時:
2005/02/23
割合最近になって気がついたのですが、絵の画面というのはただそれだけで、ある大切な<価値>を持っている様なのです。
人の脳が何故その様な形で絵を受け入れるのかその理由は謎ですが、人は絵を視ている時、画面を視野のコピーとして受け入れているように私は印象しています。 絵を見ている時、当然の事ながら、絵の存在は視野の一部であって、絵を視ている人の視野全体ではありません。 それにもかかわらず人の脳は何故か絵の画面を視野のコピーとして受け取り反応しているようです。 つまり視野の中に又小さな視野が現れるというのが絵を視ている時の脳の作用です。 絵の画像は何かのイリュージョンですが、人の脳はそれよりも前の段階で、画面を視野のイリュージョンとしてイメージするようです。
この前提に立ちますと視野の特質を考える事が、絵の画面の善し悪しを考える上での重要な手掛りになりうる事がわかります。
人の視野の一般的な形式はおおむね次の様に言えます。
視野の下半分は自分の足元からかなたの地平線へと続く大地がもたらす茶色、視野の上半分は天空の濃い空色から淡い空色の地平線へと降りてくる云わば空気色、その両者の中間に木(緑色)や海(青色)や家(様々の色)があるという構図です。 これは太古以来変わらないものですから、この風景の特質は、当然、人の脳のDNAにも深く刻み込まれているはずです。 つまり視野の下三分の一は茶色を主体とした近景の強い情報(しげき)、上三分の一は空気色を中心とした遠景の弱い情報(しげき)、中央の三分の一はそれなりの強さの様々の色の情報(しげき)というのが視野のスタンダードなあり方です。 それから、これは私が実感している訳ではなく 脳学者が言っている事ですが、視野は、視野の真中辺りが明るくて色彩が鮮やかで、視野の縁に行くに従って明るさが減じて色彩感も乏しくなるという現象です。
視野=画面という前提に立って以上のような事を考えますとこんな風に言えるはずです。
絵具はパレットの上に並んでいる時には、ほとんど単なる光学的な事実にしか過ぎませんが、絵具がキャンバスの上に乗せられたその時には、画面の上にあるという事実だけで脳生理上のある<価値>を持ってしまいます。
それは画面の上・下・左・右 (特に上・下) という部位の違いによって、脳が感じる色彩のスタンダードがそれぞれ異なっていますから、その結果、同じ色の絵具が画面の部位の違いによって異なった効果を生み出します。
つまり描く人が意識するしないに拘らず画面上で<価値>が生れます、これは絵具がキャンバスの上で審美上の<価値>を生み出す前のもう一つ初源的な DNA 上の<価値>といえるでしょうか。


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