当事者にとってはおろそかにできない大切な事柄であっても、部外者にとってはそんな事はどちらでもいいじゃないという場合は沢山あります。
というよりも世の中のほとんどの出来事はそうであると思えます。
オーディオファンの <悲劇> は、この様な人間の一般的なあり方からくる疎外感ばかりでなくて、その上に重ねてオーディオファン自身も含めて大抵の人が陥る <常識> によって、部外者から二重に隔離されてしまうことにあります。
今、リンゴを食べながらリンゴの絵を見ている人がいて、その絵に描かれたリンゴの姿を評して 「食べられないリンゴなど、どうでもいいですよ」 と言った時 「それは理不尽な評価だ」 と画家が抗議したとしても、多くの人が 「うん、それは怒るわ」 と思うでしょう。 それは絵に描かれたリンゴの姿は、脳の中に作られているイリュージョンである事は皆が知っているからです。
ではスピーカーから出る音は、音のイリュージョンでしょうか、それとも <本物> の音なのでしょうか。 大変に難しい問題に感じます。 <常識> から言えば、スピーカーから出る音も又、空気の振動である事には変わりはありませんから、当然 <本物> の音という事になります。 しかし他方 <本物> のヴァイオリンの音がマイクロホンから入って、幾多の行程と数限りない程の部品を通り抜けてスピーカーの振動板に辿り着くまでの道程を考えますと、スピーカーの音を <本物> の音と決めつけるには、どうしても疑問が起こります。
というのは、信号が一つの部品や接点を通るたびに部品の固有振動数によって少しだけ変形され、電気抵抗と内部損失によって表皮のうぶ毛を削り取られると思いますから、例えば100個の部品を通り抜けてスピーカーに辿り着いた信号は恐らく満身創痍の状態であるはずです。 “原理的” には <本物> とイコールという訳にはいきません。
とはいうものの部外者がスピーカーの音を <本物> と思い込んで <生> の音と比較検討してスピーカーから出る音を 「別に〜・・・」 と評価する様に、オーディオファンも又スピーカーの音についつい <生> の音を思い描いてしまって悪戦苦闘を強いられてしまうのです。 しかし、その涙ぐましい努力の結果が部外者からの 「別に〜・・・」 というつぶやきに帰した時、新ためて又、スピーカーからの音は <本物> の音ではないと、強制的に目覚めさせられるのです。
性懲りも無く幾度と無く、この錯覚を繰り返すのですから <修行> という言葉がふさわしいのです。
<修行>の悟り(?)から結論すれば、スピーカーから出る音というのは、<本物>でもあり、また<イリュージョン>でもあり、摩訶不思議な謎の音だと考えています。
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