COLUMN
いつも ありがとうございます


制作者・・・・坂田みどり(妻 パソコン歴 六年半になります)


 246    フルトヴェングラーV (瑞来記)
更新日時:
2004/10/02
以前<再現>についてのコラムでフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」の画像を評して、眼に入る直前の生れたままの映像と言いましたけれども、ここでもう一度その辺りのいきさつを蒸し返してみます。 念を押したいのは人間の眼の情報処理における二つの大きな特徴についてです。
 
@情報のイメージ化・概念化と呼べる作用
空は空色・水は水色・肌は肌色・土は土色・葉っぱは緑色というような<思い込み(固有色)>の現象で、単に眼の前に在る或る対象物 (隣り合っている物との相互干渉も含めて) が織りなす光の明暗と色彩の全ての情報を<平均値>化して、その情報の<平均値>をその対象の映像として受け取ってしまう<現場>の判断作用ばかりでなく、その背後に、その人の生誕から現在に至る同種の対象にまつわる全ての体験の積層を<平均値>化した記憶を重ね合わせて、その二つが合成された対象の姿をその対象物の<真>の形態だと認識してしまう脳の自然作用で、DNAを通じて祖先まで遡れる広範囲に及ぶ抽象性を有しています。 日本人は脳のこの作用に対して、他の人種、他の文化に比べて<親和性>を強く持っていると思います。
 
A情報のダイナミックの縮小と呼べる作用
明るさと暗さ・鮮やかさと鈍さ・遠くと近くといった対比の幅が現実より縮小されて<箱庭化>している視覚現象
 
映像のイメージ化・概念化は、絵画上の表現としてどの様に現れるのかといえば、対象の形が<平面化>される作用として現われますから、それの対極にある作用としては光の明暗を使った空間(立体感・奥行感)の抽出が考えられます。 ルネッサンス以来のヨーロッパの画家達はこの<平面化>という生理現象を克服せんと習練を重ねたのだと思いますが、フェルメールは先人達の知恵を集大成するかたちで、光の明暗の対比効果と、構図上の工夫と「辺縁対比」の巧妙な使い分けによって上に挙げた人間の脳の情報処理の二つの特殊性を見事に克服して、映像を生れたままの<現実>に引き戻す事に成功したのだと考えています。
私はいまだ実感した事はありませんが、聴覚にも視覚に対応する<フラット>とはいえない情報処理過程があって、それが譜面という現実の<再現>に大きな影響を持っているのではと考えています。 フェルメールが脳の生理現象を補正する事によって画面に<生気>を満たしたと同じに、フルトヴェングラーも又、聴覚上の補正を非常に<意図的>に敢行して音に<生命>を吹き込んでいるのではと想像するものです。
それが長い前置きの後の短い結論です。

 247    フルトヴェングラーU (瑞来記)
更新日時:
2004/09/29
最近クラシックのCDを5枚買いました。次の5枚です。
◎ベートーベン交響曲第九番「合唱」
 @フルトヴェングラー=ベルリンフィル(1942年ライブ)(Opus蔵 OPK-7003)
 Aフルトヴェングラー=バイロイト祝祭管弦楽(1951年ライブ)(EM I TOCE-59721)
 Bフルトヴェングラー=ウィーンフィル(1953年ライブ)(Altus-ALT076)
◎ベートーベン交響曲第五番「運命」(1943年)第六番「田園」(1944年)
 フルトヴェングラー=ベルリンフィル(Opus蔵 OPK7001)
◎バッハ無伴奏チェロ組曲(全曲)
 アレキサンドル・クニャーゼフ(チェロ)(2003年)(ワーナーWPCS-11747〜9)
 
バッハは性懲りも無くまた買ってしまいました。 半ば強迫されるように買います。 クニャーゼフという人のチェロの演奏は 「しずしずとおごそかに」 という言葉を音響化するとこんな形になるのだろうか、とうなずいてしまう程の 「超!」生真面目な演奏で、録音の良さを加味して考慮すれば、手持ちの同曲の中でも最も魅力のある一枚です。 ここ二ヶ月くらいの間は、朝いちCDを聴く時には 「少し重いなぁ・・・」と思いながらもかける事の多いCDです。
ところで 「しずしずとおごそかに」 という印象はクラシック音楽のコンサート会場などでもまず感じてしまう雰囲気で、クラシック音楽の基本のイメージと言えますが、フルトヴェングラーを聴こうかと思う時は、我がリスニングルーム(アトリエ)といえどもスピーカーの前で椅子にきちんと腰掛けて、「ながら」を遠慮して、居眠りもせずに身構えて聴き始めます。 そうすると彼の演奏が 「おごそかに、かつものものしく」 鳴り始めます。(彼の演奏は不思議とどんな曲を聴いても 「ものものしく」 始まるのです) しかし、彼の音楽のほんとの値打ちはその後にあります。 それだけでも尋常ならざる雰囲気を漂わせている 「しずしずとものものしい」 響きが、実は 「嵐の前の静けさ」 であったと実感してしまう 「血湧き肉躍る」 高揚感がその後に控えています。 大抵の演奏には、 「しずしずとおごそかに」 も 「血湧き肉躍る」 も備わっているのでしょうけれども、彼の演奏では両者の放射の総量が並外れて巨大である上に後者が前者を呑み込んだまま<熱狂>の内におしまいを迎えるという形式をもっています。 聴き終えると予想にたがわぬ(これが大切!)<説得力>のある音楽を聴いたと思う充足感があります。(毎日聴きたいとは思いませんが)
このフルトヴェングラーの音楽の<説得力>について、フェルメールの絵の特徴を<解説>して、それをそのままフルトヴェングラーの<説得力>の方へと横すべりさせてその理由の<予断>をしたいのです。 「何、それだけ!」と思われる具体性のない短い感想ですが。(以下次回に)

 248    フルトヴェングラーT (瑞来記)
更新日時:
2004/09/22
クラシック音楽と、ポップス(ロック)や歌謡曲に代表される<現在>の音楽を分けている要素の一つに<生の音>を聴くのか、あるいはそうではないのか、という条件があると思います。 個々を細かく検証をすれば必ずしもそうとも言えない場合もあるでしょうが、大づかみに言えば、ポップス(ロック)や歌謡曲には<生の音>を聴く習慣がありません(この視点からみますとジャズは大筋クラシックの側に属します)。
ポップス(ロック)や歌謡曲のコンサート会場では歌手や演奏者の音楽はマイクを通して拡声器によって<電気化>された音になって聴かれるのが普通です。 何故そうなるのかその理由を細かく詮索する知識はありませんが、これは大きな動機になりうると思う理由が一つ思い当たります。 歌手や演奏者の音楽が<電気化>されると、その作業の途中で電気技術者が、時流に合わせる様に歌手や演奏者の音楽をイコライジング(化粧)することが可能になり、コンサートに係わっている音楽産業界の人々が、かなりのところで歌手や演奏者の音楽をコントロールしてしまう慣習が生まれます。 そして歌手や演奏者も又、コンサートに係わる音楽産業界の人々の智恵を借りて自分の音楽を完成させるという相互扶助的な関係が成り立ちます。
ところで、それがそうであったにしても今回の 「フルトヴェングラー」 の話には直接関係がある訳ではありません。 しかし<生の音>を聴くのが原則のクラシック音楽界にいるフルトヴェングラーと、<電気化>されている音を聴くのが普通である歌謡曲界の 「美空ひばり」 では、それについて触れる時には心理的落差が生じると言いたいために<電気化>を持ち出しました。 「美空ひばり」 体験という時、特別に彼女のコンサートへと足を運ばなくても、テレビやCDや映画で彼女の歌や映像に接するだけでも十分<正調>の 「美空ひばり」 体験といえるはずですから誰でも逡巡無く 「美空ひばり」 を語ることができます。 ところがクラシック音楽は<生の音>を聴くのが鑑賞の基本ですから、CDによる情報だけでは<正調>の音楽体験とは言えないかもしれないという不安が心をよぎります。 ですからフルトヴェングラーに言い及ぶためには 「えい!」 と体験の空洞を飛び越えなければなりませんからいつにも増して 「まぁいいか!」 という勇気がいります。
それにも拘らず一言コメントを入れようと思ってしまうのは、それ程フルトヴェングラーの音楽に<説得力>があるからです。 コメントすると言っても、彼の演奏を具体的にとやかく言える教養があるはずもありませんから、日頃の 「再現論」 を援用して、フェルメールの方からフルトヴェングラーへと<手前みそ>に近づくつもりです。

 249    紅茶 (瑞来記)
更新日時:
2004/09/15
きっと美味しい<味>があるはずだと想像はできているのだけれど、今だそれに出逢ってはいない食べ物の内で最右翼に数えたいのが紅茶です。
その他には、例えばピーナツとか枝豆など思いつきます。 ピーナツと枝豆は、それを食べている時に往々にしてどこかしらそのおいしさに<納得感>が得られなくて 「もう少し何とかならないですかね・・・」と独り言をつぶやいてしまうのですが、さてどうやってそのまぼろしの商品を探し出したら良いのか適当な知恵が浮かばないままに、その次にそれを食べる時まではその<不満>を忘れて暮らしています。 大抵の食べ物にはその筋のエキスパートやオタクがいて、その人々の貴重な体験と知識をお裾分けして貰える有難い情報化社会ですが、ピーナツと枝豆においてはその手の<研究者>も見当たりません。 枝豆においては単に原材料が良いというだけでは十分ではなくて、茹で時間とか塩加減あるいは枝豆の両端への切れ目の入れ方とかが複雑に絡み合っていますから、手軽く 「ほい」 とは美味しい枝豆は出てこないと思いますが、ピーナツの方は千葉の地元では誰々さんの作る豆は美味しいとか、○○商店の煎った豆は美味しいとか、内輪で密かに口コミされている逸品があるのではないかと僻(ひが)んでいます。
紅茶も又<地元>であるインドや中国の事情は全く知りませんから、その上限のおいしさがどの程度のものなのか想定のしようがないのが、つらい所です。 現在の日本の常識からいえば<高級>な品物には生産者名、生産地、生産年月日を明記するのが当たり前になっていますが、日本で私達が普通に手に入れる事ができる紅茶にはそこまでの<具体性>がありません。 フランスワインの馬鹿馬鹿しいほどのランク付けを考えると解せない現象です。 「紅茶」の文化は小煩い事は言わないのでしょうか?。 そしてそれに接して共感する人も、皆んな小煩い事が嫌いなタイプの人なのでしょうか?。 「そんな事はありません、それは貴方が物を知らないだけですよ」 と感想されている紅茶体験の豊かな方はお教え下さればと思います。
 
以上、書き終えた時点で<念のため>と思って立ち寄った本屋さんで 小田 栄 という人の 「おいしい紅茶の図鑑」(主婦の友社・1300円)という本と出逢いました。
私が今までみた紅茶の案内書では一番<具体性>に富んでいましたので、その本で紹介されていたお店から急いで 「お取り寄せ」 しました(家内がインターネットで注文)。 取り急ぎ結論を言えば 「貴方が物を知らないだけですよ」 の近似値ではあったのですが、「目からウロコ」とはまいりませんでした。 ただ、現在の日本で手に入れる事のできる紅茶の<味>の上限をどのくらいに想定したらよいのか、その手掛りになりました。 コラムは書いてみるものです!

 250    <トリビア> (瑞来記)
更新日時:
2004/09/08
テレビ番組でやっている 「トリビアの泉」 の「トリビア」とは無駄な知識という意味だそうです。 その知識が無駄であるのか有効であるのかは、その人その人を訪れる<偶然>によるでしょうが、コラムの作者としては随分と気休めになる言葉ではあります。
今回の我が “トリビア”は3月10日のコラムに遡ります。 <美空ひばりU>の時に藍川由美(クラッシック、ソプラノ歌手)という人の『 「演歌」のススメ 』という本を俄か勉強したのですけれども、その第三章『 「古賀メロ」解剖 』を読みながら、私が 「人生劇場」や 「湯の町エレジー」の歌に何を求めて聴いていたのかがよく判る様に古賀政男の音楽が解説されていて 「あぁそうなのか」と合点がいく<無駄>ではない知識を教わりました。 しかしその時にチョット拘らざるをえない様な一節を見つけたのでした。『 かつて村田英雄は「人生劇場」の「な〜まァァァァじとめるなァァよるのあァァァァめ」 を一息で歌い切ったものだが、他の歌手の演奏ではこうはいかない。』(185P)とあるのです。 「51ヘェ〜」でした(100を満点としてその知識の<驚愕>の度合いを 「ヘェ〜」で表します)。 では一息で歌うのと息継ぎをして歌うのを音楽的に違いがあるのかというと、それは大差ないというのが彼女のニュアンスです。 要するにそれだけの話なのですが、私としてはその<事実>の確認を取りたいと<強く>思ったのです。
早速我が<装置>で村田英雄の「人生劇場」を聴いてみたのですけれども、私には残念ながら<息継ぎなし>を聴き取る事ができませんでした。 それではと<息継ぎなし>を確認できる様にオーディオの機械を整備点検しようと、より良き<設置>を求めて、それから毎日研鑽を積んできました。どこをどう<改良>するのか具体的な話は機会があれば報告したいと思っていますが、その甲斐あってか最近になって漸く<気配>がいくらか正確に表われる様になりました。 それで家内に協力してもらって確認を取る事にしました(私は耳の劣化が激しくて健常な人の6割程度の情報しか入手できません)。 三回聴いてもらいましたが 『<息継ぎ>はしていない様に感じる』というのが二人の結論でした。
ついでに手持ちの七種の 「人生劇場」の<息継ぎ>の有る無しを調べてみました。 歌い手の意志がはっきりと聴けるのは藍川由美と美空ひばりだけで、後の五人はそんな感じがするという域のものです(“トリビア”ン!!ですけれども)。
 
息継ぎなし・・・村田英雄 藍川由美 二葉百合子 
息継ぎあり・・・美空ひばり 天童よしみ 細川たかし 杉良太郎
 


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