最近クラシックのCDを5枚買いました。次の5枚です。
◎ベートーベン交響曲第九番「合唱」
@フルトヴェングラー=ベルリンフィル(1942年ライブ)(Opus蔵 OPK-7003)
Aフルトヴェングラー=バイロイト祝祭管弦楽(1951年ライブ)(EM I TOCE-59721)
Bフルトヴェングラー=ウィーンフィル(1953年ライブ)(Altus-ALT076)
◎ベートーベン交響曲第五番「運命」(1943年)第六番「田園」(1944年)
フルトヴェングラー=ベルリンフィル(Opus蔵 OPK7001)
◎バッハ無伴奏チェロ組曲(全曲)
アレキサンドル・クニャーゼフ(チェロ)(2003年)(ワーナーWPCS-11747〜9)
バッハは性懲りも無くまた買ってしまいました。 半ば強迫されるように買います。 クニャーゼフという人のチェロの演奏は 「しずしずとおごそかに」 という言葉を音響化するとこんな形になるのだろうか、とうなずいてしまう程の 「超!」生真面目な演奏で、録音の良さを加味して考慮すれば、手持ちの同曲の中でも最も魅力のある一枚です。 ここ二ヶ月くらいの間は、朝いちCDを聴く時には 「少し重いなぁ・・・」と思いながらもかける事の多いCDです。
ところで 「しずしずとおごそかに」 という印象はクラシック音楽のコンサート会場などでもまず感じてしまう雰囲気で、クラシック音楽の基本のイメージと言えますが、フルトヴェングラーを聴こうかと思う時は、我がリスニングルーム(アトリエ)といえどもスピーカーの前で椅子にきちんと腰掛けて、「ながら」を遠慮して、居眠りもせずに身構えて聴き始めます。 そうすると彼の演奏が 「おごそかに、かつものものしく」 鳴り始めます。(彼の演奏は不思議とどんな曲を聴いても 「ものものしく」 始まるのです) しかし、彼の音楽のほんとの値打ちはその後にあります。 それだけでも尋常ならざる雰囲気を漂わせている 「しずしずとものものしい」 響きが、実は 「嵐の前の静けさ」 であったと実感してしまう 「血湧き肉躍る」 高揚感がその後に控えています。 大抵の演奏には、 「しずしずとおごそかに」 も 「血湧き肉躍る」 も備わっているのでしょうけれども、彼の演奏では両者の放射の総量が並外れて巨大である上に後者が前者を呑み込んだまま<熱狂>の内におしまいを迎えるという形式をもっています。 聴き終えると予想にたがわぬ(これが大切!)<説得力>のある音楽を聴いたと思う充足感があります。(毎日聴きたいとは思いませんが)
このフルトヴェングラーの音楽の<説得力>について、フェルメールの絵の特徴を<解説>して、それをそのままフルトヴェングラーの<説得力>の方へと横すべりさせてその理由の<予断>をしたいのです。 「何、それだけ!」と思われる具体性のない短い感想ですが。(以下次回に)
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