友人のT さんと話していた時、私の「巨人」狂ぶりに微笑みながらT さんは 『スポーツ(のゲーム)というのは<結果>が全てですから、私には物足りません。プロセスを大切にして、そこに価値を見つけることが人生の充実じゃないですか』 と諭される場面がありました。 私自身も日頃は、結果がすべてではないという意見に加担したい方の人間ですけれども、長く「 巨人」ファンをやっていても、野球を観ながらそんな風には考えたことはありませんでした。
しかし、逆に言えば結果が全てだからこそ、スポーツ(のゲーム)が魅力的なのかもしれません。 そして、そのスポーツを<より以上>に面白く観ようと思えば、ある特定の個人やチームを<ひいき>するのが、何よりの<特効薬>となります。
競技者自体が表している肉体的・精神的に極めて高度な技術とか鍛錬とかの<魅力>は、ことプロ野球だけに限らず、例えばオリンピックの種々の競技をテレビ観戦している時など如実に感じます。 そういう<極限性>には、必ず美しいフォームがあって、思わず見惚れてしまう説得力があるものですが、いつまでも、それが<魅力>であり続けられるかというとそうではありません。 人はやがて「神業」にも慣れてしまうからです。 かといって、我が子の運動会や草野球で、我が子を<ひいき>してそれだけで<満足>できるかというと、当事者は、このゲームを面白く観戦できるのは自分達だけであることを前もって自覚していますから<共感>が<皆んな>までは拡がっていかなくて尻すぼみになってしまいます。
そんなことを考えてみますと、「巨人」ファンであることは、スポーツ(のゲーム)を楽しむ方法としては、ほんとに<有難い>形式であったと感謝しています。 「巨人」に感情移入することは、他の五球団による「アンチ巨人」の結束によって、しっかりと受け止められていますから<安心>して<入れ揚げる>ことができます。
資料によりますと、与那嶺要がハワイから巨人に入団するのが1951年で、’54年には0.361で首位打者になっているそうなので、私が小学館の「小学○年生」で彼の紹介記事を読んだのは、おそらく1955年の小学六年生の時であったと思われます。私の場合でいえば、私が初めて確認したプロ野球選手が<与那嶺>であったことが「巨人」の始まりでした。
みどり談・・・今期のプロ野球は「巨人三連敗」で幕を開けました。 「巨人ファン」の側に居るものとしては、早く <一勝>をあげてほしいです。 (今夜、今期初勝利でヤレヤレでした)
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