COLUMN
いつも ありがとうございます


制作者・・・・坂田みどり(妻)


454 < ホームギャラリー開設に向かって☆ > (みどり記)   
更新日時:
2015/11/01
九月のコラムで、重い腰を上げるために 『自宅を リフォームして、ギャラリーに!』 と、「有言実行」 発言をしました(笑)。

九月いっぱいは、部屋の片付けに コツコツ コツコツ 精出し、十月になって 荷物が運び出され、いよいよ リフォーム工事が始まりました。

最初は、どうなる事かと、想像も つきませんでしたが・・・周囲の方々のアドヴァイスや、手助けもあって、順調に リフォーム作業は進んでいます。

部屋の形が整い、壁が出来、壁紙も 貼られてくると、急に 部屋らしくなり、楽しみの方が 大きくなってきました。
予定では、あと二週間で リフォーム完成です。





453 < 初めての 講演会 >(そのD) (みどり代筆)  
更新日時:
2015/10/17
「では、人は 何を 見ているのか」 考えてみるけれども、物の 姿・形以外に見る物なんて、何もない訳で、長い間、疑問に思っていたので・・・・・その疑問が、一気に 氷解しました。
人は、無意識の内に 「距離」 を測っている、それは間違いないだろうと 確信しています。 それでは、何故、人は 第一義に 「距離」 を測るのだろうか、この問いには、ほとんど すぐに 答えを思いつきました。

生きていく上で、人は 自分の身の安全を守るために、あるいは 作業を うまく処理するためには、「距離」 を正確に測る事は、必要不可欠の条件である事が判ります。 そして 人が自分の 「身を守る」 という目的が、視覚の最も重要な役割である事に 気がついた時、人には 自分の身の安全を守るために、もう一つ 確認しなければならない項目がある事を 思いつきました。

それは、見ている対象が 何であるのか、それが 自分にとって 危険なものであるのか ないのか、確認しなければなりません。 見ている対象に、すでに知っている 「名詞」 を当てはめる事ができれば 一安心ですが、当てはめる事ができなければ、それは 未知の物ですから 警戒しなければなりません。

こう考えてきますと、人は 「距離」 の他に、もう一つ 物に付いている 「名詞」 を見ている事に気がつきます。 例えば、リンゴを 視ている時、人は リンゴの姿と形を見ているというよりは、「リンゴ」 という名詞を確認していると言えます。例えば、青空を見上げている時、空の 実際の青さを見ているのではなくて、「青空」 という名詞の青さを見て 感動していると考えます。
こんな風に 何を見ても、必ず、物の 姿と形の向こう側にある 「名詞」 を人は見ている。 私は、そう確信しています。

この考察の後で、では この条件の下で 絵が満たさなければならぬ 優先順位を考えます。

@ 描いた対象が、何であるのか すぐに判る事
A 作者から、描いた対象までの距離、そして 対象と対象の間の距離が、なるべく正確に表現できる事
B 対象が 何であるのか 判断し易い様に、陰影をつけて 描写を正確にする事

ここでは、@ ・ A が大切な要件であって、B の対象の正確な描写は、@ ・ A を手助けするためにあるので、それ自体が 目的ではありません。 ここで、@ と A を重点的に 考えてみます。

実際に、絵を描いていて、@ の価値評価は、非常に 難しいと思います。 例えば、幼児の絵でも、絵手紙でも、漫画でも、それが 何を描いてあるのかは、大抵 すぐ判るものです。 これは、犬の種類には 何百種類もあると思いますが、その外形が どんなに違っていても、すぐ 犬だと判るという事に 似ているように感じます。
私には、手に余りますので @ の項目は、今は 保留にします。

それでは、A の項目を考えてみます。 そこで とりあえず、私の予測を 実験してみました。

山並みが 幾重にも重なって 遠くへ消えていく時、段々 薄くなっていく 山並みの色合いに、私達は 心地よい 空気感と 距離感を感じますが、あの原理を、短い距離である 机の上の 静物たちに適用して 描いてみました。
そうすると、机の上に 明らかに 山並みを見る時の様な 空気感が生まれます。

それで とりあえず 「距離」 を表現するためには、空気感があれば 良いと考えて、では 「空気」 の事でも考えてみようかと、「空気」 に注意を向けた途端に、ほんとに 「あっ!」 と驚きました。

地球上で、最も、どこにでもある物が 「空気」 です。
陸にも、海にも、山々にも、家の中にもあって、しかも、いつも 人を包み込むように、一番 人に近い所にあります。 そして、空気が無くなれば、人は 三分で死にます。 その緊急性は、水とか 食物とかの オーダーとは、三桁とか四桁とかは 違っています。
それに加えて、太陽光線といえども、空気がなければ 光として機能しないのです。 それどころか、音さえも、空気がなければ 「音」 として聴こえません。

これらの事実に気がついた私は、人の脳の中には、必ず、空気の濃度を計る部位があって、ひょっとしたら 絵を見る時も、この部位の影響が 一番強くあって、絵に空気感があると 快適に感じるのではないかと 予断しています。

それで、三年位前からは、意識的に 「空気」 を描くつもりで、静物画を 描く様にしています。 何故なら、今まで述べた様な事実を考えますと、「空気」 を描く事は、地球を描く事に 他なりません。 誰がやっても、「空気」 を直接 描く事はできませんが、また逆に、風景画に限らず、人物画でも 静物画でも、「空気」 を表現する事は、努力次第で 可能になります。

この時、一番 参考になるのが、フェルメールの絵で、フェルメールの展覧会に行った時に 手に入れた 『牛乳を注ぐ女』 や、『真珠の耳飾りの少女』 や、『編み物を編む女』 などの 大きなポスターを、仔細に 観察している 今日この頃です。 (終)    (9月26日 「四国まん中アートコロニー」 の 講演会にて)






452 < 初めての 講演会 >(そのC) (みどり代筆)
更新日時:
2015/10/14
この考察が終わった後は、また、無風の 坦々とした制作の日が続きましたが、15年くらい前になりますが、村上 元彦という人が著した 「どうしてものが見えるのか」(岩波新書) というタイトルがついた本に 出逢い、『辺縁対比』 現象という言葉を教わりました。
私も 初めて 耳にする言葉でした。 しかし、その具体的な内容は、誰でも 日常的に 体験している視覚現象です。

同じ色合いであるはずのものが、相接するものの色合いが違っていると、違った色合いに見えるという、人の目の不思議な現象を 『辺縁対比』 現象というらしいです。
(『辺縁対比』 について書いた コラム No.104 も 参照してください)



この現象が、絵画にとって 何故 重要であるかと言いますと、この現象を 意識的に 輪郭付近で利用しますと、輪郭線を 強くしたり、弱くしたり、鋭くしたり、鈍くしたり、鮮やかにしたり、穏やかにしたり、輪郭線を 自在にあやつって 様々の表情の輪郭線を 出現させる事ができるからです。

例えば、フェルメールの 強くて柔らかい印象を与える 品の高い画面は、この 『辺縁対比』 現象の持っている力を、最大限に発揮させた 見事な知恵が 一因をになっていると思います。

そして、この 『辺縁対比』 騒ぎが 治まってから、また、十年くらいは 平凡な制作の日々が続きますが、自分が作り出す作品の 出来映えには、相変わらず 不満がいっぱいあるのが実情でした。

そんな時に、また、幸運が やってきました。
おそらく 6〜7年前になると思いますが、TVのチャンネルを カチャカチャと回しながら見ていて、たまたま nhk の教育番組で、何か 動物について 話をしていたのですが、その中で “「距離」を正確に計測できるのは、人間だけです” という解説が 聞こえてきました。
「え、人間だけ!」 と つぶやいたのですが、つぶやいた途端に、「これだ、これしかない」 と確信しました。

その頃、「人は 何を見ているのか」 と自問自答する事が よくあったのですが、それは 私が 絵を描いている途中で、どうも 「人は 物の姿・形を 見ていないのではないか」 と感じる事が しばしばあったからです。 (続く)



451 < 初めての 講演会 >(そのB) (みどり代筆)
更新日時:
2015/10/10
これからは、絵の上達をめぐって、一段 ハイレベルな 模索と試行が始まります。

40歳頃から 油絵を描き始めて、十年くらいの間は、坦々とした 単調な 制作活動が続きます。 油絵を始めたという喜びは ありましたが、思う様には 上手になってきません。
もはや、私が 最初に発見した 視細胞の感度変化という項目だけでは納まり切れない現象を、しばしば体験するようになりました。
ただ、今度の場合は、前回の悩みのように、完全に 立ち止まって考えを集中するというほどは、切羽詰まった心境ではなく、描きながら 考えていきました。

そうする内に、画面全体を 等質の強さで 描く事が、一番 良くない行為らしいと 思い至りましたが・・・・・画面を等質に描く行為が、なぜ 良くないのかという問いに 答えが思い浮かばなかったら、画面を、どう変えていったらいいのか、その方向が定められません。

絵を描き始めて、もう 20年近くも過ぎる この時期になると、さすがに 少しづつ 知恵と体験が集積されて、昔なら考えもしなかったであろう 人の脳の働きについて、考えを 及ぼすようになっていました。
脳の働きを 分析しない限り、絵は 一歩も 進まないだろう事も 判り始めていました。

人が 絵を描こうとして、物を 詳しく 観察しようとする時、違った 二つの場所を 同時には 同じ強さで 観察する事はできません。 必ず、一方が 主で、一方が 従です。
物を 詳しく、そして強く 観察できるのは、視野の 中心付近に限られていて、視野の 端の方にある物は、詳しく 観察する事ができません。

ここで、直感的な 推論として、絵の画面と 人の目の視野全体を、同じだと考えてみます。 そして、先ほど述べた、人の視野の特徴を、そのまま 画面に移し替えてみますと、こうなります。
「物を描く時は、画面の中央あたりにある 主役の一つは、強く詳しく 描かなければならないが、それ以外の物を描く時には、主役を超えるほどに、強くも詳しくも 描いてはならない、特に、画面の 端の付近にある物を描く時は、それを 弱く 描かなければならない」

早速、この原則を 適用しながら 描いてみますと、明らかに 画面を見る時の “疲労感” が減ってきました。 その結果から判断すると、画面と 視野を 同一視するという 先程の前提が、あながち 間違った設定でなかった事が判りましたが、もう一つ、私が 少し 持て余していた 「細密画」 の評価について、一つの解答を 導き出すことができました。 今の原則を、そのまま 「細密画」 に当てはめますと、細密に描いて良いのは 画面の中央あたりだけであって、あとの部分は それを超える様に 描いたとしたら、それは視覚の 自然な形式に 調和しないわけです。 ですから 細密に 描かれていると 印象づけるほど、画面の広い範囲で 細密に描いた絵は、この原則からみますと “傑作” の仲間に入れるのは 人の観賞力を 疲れさせてしまうという理由で、退けてもよいのではと考えています。

確かに 「細密画」 は、魅力的で 説得力もありますが、しかし又、一方、レオナルド・ダ・ヴィンチの “モナリザ” も、フェルメールの “真珠の耳飾りの少女” も、緻密には 描かれてはいますが、「細密画」 という印象がやってこない事も、留意しなければならない事実です。 (続く)



(左端の 「細密画」 は、1970年代 アメリカで 一世を風靡した スーパーリアリズムの一枚です)



450    < 初めての 講演会 >(そのA) (みどり代筆)
更新日時:
2015/10/09
そして 40歳くらいの頃、いよいよ 本命の油絵を 始める事になります。

まず、最初の一枚は、周囲の人達が描いている 普通の方法で描いてみました。 ところが、出来上がった 油絵の絵肌は、思い描いている 油絵のイメージとは かなり違っていて、これでは未来へと繋がっていかないと 強く思い、新しい知識が必要だと考えて、油絵の技法書を探しました。

そこで、フランス人の グザヴィエ・ド・ラングレという人が著した 『油彩画の技法』 という本に 出逢ったのは幸運でした。
技術書にしては、かなり難解な本でしたが、必死の思いで 五回くらい読み直して、やっと 全体のイメージを捉える事ができ、書いてある内容は 充分 信頼できるという印象で、油絵の技術的な問題は、こらからも ずっと 全てを この著書に従おうと決めました。



その本の中に出ていた 絵の材料 ( 絵具・溶き油・筆・キャンバス制作用の麻紙と膠 etc. )を求め、実際に、この書物の指示に従って、油絵を描き始めるための 準備の作業に取り掛かってみると、おそろしく 手間と時間のかかる 『技術』 でした。
麻紙を膠で貼る キャンバス作りは、二人がかりの作業で、溶き油を調合したり〜、20日間くらいかけて、やっと 準備が終わりました。
ただ、それらの材料を使って 描いてみると、その効果は抜群で、絵肌の表情は、思い描いていた 「油彩画」 のイメージを 十二分に満足させるもので、“目からウロコ” に近い感覚でした。
それから今日まで 35年近く、ずっと 同じ技法を踏襲して 絵を描いています。

ここまでで、絵画修業の前半は 終わります。 (続く)





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