今日は私が約40年ばかりのビジネスマン生活で商社マンとして海外勤務や、岡山に帰って中小企業のおじさんとしてやってきた中でいろいろと考えていることを皆さんにお話ししたいと思っています。
日本の国内、或いは海外で毎日起こっているニュースを皆さんはどう受けとめておられるでしょうか。
特に政治とか経済、行政関係のことになると身近ではなく、それよりも日日の勉強や、今日の食事のこととかにかまけてしまいがちですね。特に経済ということになると、なじまない言葉かもしれません。そう言う私も、大学では経済学部を選んだのですが、当時は経済学がどういうものかわからないまま、いい会社に入るためには経済学部がいいのだろうというぐらいに考えて選んだように思います。
しかし、経済は毎日の生活の基本ですよね。毎日の衣食住をまかなっていくのはお金、経済です。国も税金を徴収して、予算に沿って歳出していく。それをやっているのが行政、お役所ですが、これも国家の経済です。そういうふうに経済は社会の骨格をなす大切なものですが、物価が高いとか安いとか、景気がいいとか悪いとかという話だけで終わって、経済の仕組みや課題をあまり身近に考える習慣がないですね。
そこで、ここでは重要な問題を取り上げて、皆さんで同じ世代ならではの意見交換や議論をしてみる、更には国際比較をしてみるということをして、課題の発見や、日常的な問題意識を持ってもらうきっかけになればと思っています。また、更にはそういうことを通じて、あるいはそういうことを習慣にしていただいて問題の解決方法、ひいては日本をよくするためにしなければいけないことや、それぞれの生き方についても合わせて考えていただくきっかけになればと思っています。
特に今は、日本の景気はよくなったとはいえ、さまざまな問題が山積しているし、日本の国際的な地位も影が薄くなっています。また、子どもたちの学力も低下している。そういう日本をこれからどう立て直していくかは皆さんの双肩にかかっているわけです。
今回はそういう普段なじみにくいテーマを、非常に限られた時間の中でお話していかなければいけないので、皆さんに事前に資料をお渡しして予習をしていただいた次第です。
日本の近代化と経済発展の歴史
―1868年(明治元年)〜1912年(明治45年)―
日本の近代化は明治維新、1868年から本格的に始まったんですね。明治維新は非常に早いスピードで進んでいきました。そのときのスローガンは「文明開化」「富国強兵」「殖産興業」です。
文明開化、西洋の文物をどんどん取り入れて日本を近代化していきました。明治5年には横浜と新橋の間に鉄道が開通します。国鉄の始まりですね。これは近代化の象徴的な出来事でした。その後10年から15年の間に全国に鉄道が敷かれ、電気が通り、水道や下水道が大都市にはできます。
それから廃藩置県でお役所もできます。それまでは大名が領主であった藩、備前(岡山)には池田藩がありましたが、そういうものは皆廃止して、県を置き、72の府県ができました。そこにそれぞれ県庁ができ、知事が置かれます。市役所や町村の役場もでき、当時は郡がありましたから郡役場もできる。警察署や税務署、小・中・高校から大学まで数多くの教育機関、そこで働く公務員や教員の養成、建物の設計から施工まで気の遠くなるような大事業です。
こんなことをたった10年ぐらいの間になし遂げました。それらを作る背景には全て法律がありますから、何百何千という法律ができました。当然議会もできました。国会ができ、府県には府県の議会、市町村議会もできました。そして市町村民から税金を徴収して、国から市町村に至るまでの行政機関が年々必要な事業を計画し、実施する仕組みを作り上げました。そういうようにどんどん政治・経済・行政の形が出来上がりました。
富国強兵、日本は「黒船」をきっかけに開国したわけですが、当時、欧米先進国の武力は強大でしたから、それから日本を守らなければいけないと、軍事力を高めるためにプロシア、今のドイツから陸軍を学び、イギリスから海軍を学びました。外国の模倣ではありましたが、軍事力を備えるために軍隊を作り、兵舎を作りました。そして全国各地に師団を置き、軍人を育てる。これも大変な仕事ですが、これもたった10年ぐらいの間にほぼ作り上げたわけです。
殖産興業は、文字通り産業を増やし、産業を興すということですが、近代化のために工業力を育てなくてはいけない。衣食住に関係したことですと、それまで着物で生活していたものが洋服での生活になると、洋服を作らなければいけない。それには洋服の生地を作らなければいけない。すると製糸工場、製織工場がいる、そういう工場をどんどん作って、当時は絹が主体でしたから、生糸の製糸工場が全国各地にできました。日本は繊維産業で最初の工業力を身に付け、近代化を進めたわけです。文明開化、富国強兵、殖産興業という国策を立て、欧米先進国を基本とした近代国家作りをしてきたわけですね。そして、明治30年頃までには日本の近代国家の形も内容もほぼ出来上がったのです。
これはすごいことです。たった2、30年の間に近代化ができたという背景には、その前の江戸時代までに日本が蓄積してきた文化、知識、技術があったからです。
江戸時代は鎖国をしていましたが、外国からいろんな人が漂着して日本でしばらく暮らしたとか、オランダとは長崎を通じて外交関係がありました。彼らが書き残した本もたくさんあるのですが、ほとんどの人が当時の日本の文化、学力、日常生活そのものを大変賞賛しています。日本人は非常に規律正しく礼儀正しい。清潔である。田舎に行けばいろんな花が植えてある。ゴミ一つ落ちていない。都会では皆、勤勉だし、読み書き算盤もできる。と外国人たちは一様に賞賛しているわけです。
当時の西欧先進列強国は、隣の中国や東南アジアを蔑視しており、そういう目で日本にやってきて、びっくりしたんですね。それほど日本人は勤勉であるし、語弊があるかもしれませんが、非常に向上心も豊かで知的レベルも高い、規律とかモラルに厳しく自らも律していける、そういう民族だという評価を受けていたのです。そういう下地があったからこそ明治維新が成功したと言えます。ここから日本の近代化が始まったわけですから、これは大いに誇りにすべきことだと思います。
―1912年(大正元年)〜1945年(昭和20年)―
1968年明治元年から明治45年の間に、明治政府のもとで文明開化、富国強兵、殖産興業策で日本の近代化が進められてきました。明治時代の終わりの頃、日清戦争、日露戦争という大国を相手にそれを打ち負かすという戦争をやった。戦争そのものは決していいことではないし、賛成はできませんが、その当時日本が置かれた立場はそうするしかなかったのかなと私は思います。その結果のいい面から申しますと、一つは日本の国際的地位が非常に上がりました。日本に対する評価が、がらっと変わり、また、工業力が飛躍的に上がりました。これはプラスの部分です。
当然プラスにはマイナスが付いてくるわけですが、マイナス面では日本の軍事力をいい事にして、さらに日本の勢力を拡大していこうと欧米列強に対抗する、行き過ぎたナショナリズムや、領土的野心を背景にした、いわゆる軍国主義が生まれるもとになったということがあるでしょう。軍事力を持つこと自体はその時点では間違いではなかったけれど、それを議会がきちっとコントロールしていく民主主義が根付かなかったことが、その後の太平洋戦争、第2次世界大戦で負けることに繋がったんだろうと思います。これも大きな反省点です。
ところで、皆さんは「大東亜共栄圏」という言葉を聞いたことがありますか?
日本がアジアを束ねて盟主になろうというということです。なんといっても日本は、アジアの中では近代化に成功したし、軍事力も工業力もすべてトップを走っているわけですから。いろんな意味でアジアの国の発展や安定を助けていかなければいけない、いわば親分格になろうとしたわけです。
これもすべては否定しません。いわゆる「国際貢献」と今でも言うことですが富める国が貧しい国を助けていく、貧しい国が自立できるように手を貸していくということは当然必要なことですよね。それが拡大していった中でこういう事が起きたわけですが、これも軍部が力を持って、いわゆる領土的な野心で日本の植民地を作っていこうというようになったから抜き差しならない状態になってしまったわけです。
―1945年(昭和20年)〜1960年(昭和35年)―
そういった歴史の中で昭和20年に第2次大戦、太平洋戦争が終わったんですね。そこから1960年、昭和35年までを戦後復興期と私は認識しておりますが、敗戦の廃墟の中で君たちのおじいちゃん、おばあちゃんたちが一生懸命に働いて日本の復興に貢献され現在に至ったわけです。
戦後、日本は経済再建を図るとともに民主主義の国を作ることが課題になりました。
昭和27年にサンフランシスコ条約が結ばれるまで、日本はアメリカを中心とした連合国の占領下にあり、被占領国だったわけです。東京に総司令部が置かれ、GHQ(General Head Quarterの略)といいました。マッカーサー元帥なんて名前を聞いたことがありますか?
マッカーサーというアメリカの元帥が総司令官でした。そのGHQの管理の下に日本の政府が新しい民主国家作りをやったわけです。これも功罪いろいろとあります。押し付けられたこともあるだろうし、非常に助けてもらったこともある。そういう中で日本の再建が進んでいきました。今でも憲法問題なんかは議論の多いところですね。この平和憲法はアメリカから押し付けられたものだという意見もある。多小そういう面はあったかもしれないけれども平和憲法のもとで日本の戦後60年の経済発展が成功したんだということもありますね。
物事にはいい面と悪い面とが必ずあるんです。片方だけを強調すると間違ってくる。物ごとは両方見ていかなければいけないということだと私は思います。
―1960年(昭和35年)〜1975年(昭和50年)―
1960年、昭和35年、ここから約15年かけて高度経済成長の時期です。経済成長率10%、15%という高度成長を遂げている今の中国の状況を皆さんは知っていますよね。内陸の方はまだまだ貧しいのですが、上海、大連を中心とした海岸沿いの工業地帯ではどんどん近代化、工業化が進んでいます。1960年から75年にかけての日本が似たような状況でした。
その結果、たぶん世界史上、初めての高度経済成長に成功したわけです。アメリカに次いで世界第2の経済大国といわれたのが75年ごろでした。この15年の間に大量生産、大量消費という高度成長の象徴的なパターンが作られました。大量に物を作って大量に販売したということは、大量に物が必要だったということです。
皆、物を欲しがった。洋服も、家具も、冷蔵庫もテレビも扇風機も、車もと、物が欲しい欲しいといった具合で、大量に物が売れたわけです。それが一段落したのが74、5年頃です。73年に「オイルショック」という大きな事件がありました。中近東でのいろんな戦争があったために石油生産が大幅に減っており、石油がもうなくなる、後20年、30年でなくなるのではと言われました。よくよく見たらば、石油は埋蔵量が限られているわけですからね。
我々の生活は石油に依存するものが多くありますね。車のガソリン、工場で使う重油、これらは直接に油です。油の形をしていない、例えば衣料品でもポリエステル、ナイロン、アクリルというのは石油を原料としたナフサから作られている。プラスチックもそうです。車のタイヤも今は合成ゴムを使っていますが、これも石油です。石油だらけなんです。
その石油が1バレルが1ドルだったものが数週間で5ドルになり10ドルになった。これはもう大変なことでした。これがオイルショックということです。これが一つのきっかけになって、「ただ物をたくさん作って、たくさん売って、たくさん消費する時代は終わったのではないか、もっとエネルギーを節約しなければいけない、消費のあり方を変えていかなければいけない」と言われ始めたのが1975年頃です。そこから経済の動きが少し変わってきました。
―1975年(昭和50年)〜1990年(平成2年)―
その後1990年までの15年は経済の成熟期だろうと思います。高度成長からいわば安定成長へ。
で、当然物が売れなくなった。家庭に電化製品がいっぱい溢れて寝る場所もない。たんすの中には着物や洋服がいっぱい。つまり買うものがなくなった、物がいらなくなったと言った方がよいのかもしれません。「Small is beautiful」といわれたのもその頃です。あれも欲しい、これも欲しいという生活を変えようではないかと。
買って使ったら捨てなければいけない。そうするとごみがどんどんできる。そういった消費のサイクルも変えていかなければいけない。公害問題の深刻さも頂点にきていました。資源も何時までもあるのではない、限りがある。地球環境を考えても消費の規模を縮小していかなければいけない。経済の規模も成長一本槍ではいけない。ということが声高に言われたのがこの頃です。
価値観もライフスタイルも大きく変わっていく。これには非常に時間がかかります。なかなかそれを納得しない人もたくさんあります。相変わらず物をたくさん作って売る、国内で売れなくなれば外国へ売ろうじゃないか。明治以降、日本は資源がない国ですから、外国から資源やエネルギーを入れて、加工した製品を輸出し、それで利潤を稼いで、外貨を蓄積して日本は豊かになったんですね。
このパターンは変わらないわけですが、外国も、例えばアメリカは自動車や鉄鋼をたくさん作っている。そこへ日本が自動車や鉄鋼をどんどん売りつけるわけですから、当然摩擦が起こる、いわゆる貿易摩擦というものが頻繁におこりました。最初は繊維でした。繊維の国際会議でバトルがあり、日本が譲歩することがしばしばありました。その次は鉄鋼でした。次はトランジスタとか半導体、車と、次々と手を変え品を変え日本の輸出は伸びてきました。それによって日本は豊かになったわけですが、相手の国からは必ずしも受け入れられなかったということがありました。
貿易で国が豊かになっていく、これも国際経済の重要な側面ではありますが、そこではお互いの衝突がありますから、そうでないように相手の国と日本がお互いに譲り合い、住み分けていくことが大事ですよね。その歴史でもありました。ですから今、日本はもう輸出で経済を大きくすることができなくなった。
中国では今、近代化でどんどん工業化が進んでいます。工業製品が中国でも作れるようになってきた。日本の人件費に比べると20分の1、地方によっては50分の1ですから、当然向こうでは安く作れるので、10年、20年前から日本の工業も中国に生産拠点を移して、あちらで生産した物を日本に入れるということをごく日常的にやるようになりました。
君たちが着ている洋服なんかも6割から7割が中国製です。かつては、中国製品は「安かろう、悪かろう」だったのですが、今は安いものもあるけれどいいものも造れるようになって日本のマーケットで充分戦えるようになってきました。すると日本の製品は品質も価格も対抗できないから手を引くしかない。そういうふうに住み分けていくわけです。
今後中国がどんどん経済発展を続け、土地の開発、街づくり、港湾、道路を作るとなると今度は足りないものが出てきます。鉄鋼はほぼ行き渡っています。もう30年前に、日本の技術援助で中国の上海には世界一の高炉を持った製鉄所ができました。これが今、単独の工場では世界一の生産量です。もう日本から鉄鋼を買う必要がなくなりました。
ところが機械類、ブルドーザー、ショベルといったものは簡単には作れない。その素材も技術も大変高度なものですから、部品は日本で作り、組み立ては向こうでといった形でお互いに共存共栄ができればいいですね。そういったことで今、日本の機械がどんどん売れ、それを運ぶ船まで売れるという状態で、一部の製造業の景気がよくなっています。
そういう紆余曲折を経ながらですが90年以降、今日までの10余年ばかりは経済の構造変動が進んでいる。つまり、物を大量に作って、大量に売る、大量に使うという時代が終わったと私は理解しています。
―1990年(平成2年)〜現在―
それでは日本はどう変わって行けばいいのでしょうか。物が充足された後の価値観とかライフスタイルの変化から消費も大量消費から多品種、小ロット、単サイクルになる。つまり一人一人好みが違ってくる。豊かになるということはそういうことなんですね。
自分の好みの生き方をしたい。自分のファッションを楽しみたい。あなたは旅行が好きだが私はスポーツがいいと、互いに夫々の自己主張を始めるのも豊かさなんです。そういうことが産業のあり方にも反映してくる。大量に同じ物を作るのではなく、少しだけれども個性的でいいものを作る。付加価値の高いものを作る。ファッションなんかはその典型だと思います。そういうふうに産業構造も重化学工業から、ファッション、教育、健康、福祉、観光、レジャーへとどんどん変わってくる。これからはもっともっと変わらなければいけないと思います。
アメリカはここ10年ばかり好景気ですが、その前80年代は大変ひどい状態でした。その頃の日本は好景気を背景に外貨は蓄積するは、アメリカには進出していくは、世界の経済を支配するような力を持ったということがありました。そして、アメリカは日本にはもうかなわない、アメリカも日本の経営とか、日本の企業のあり方をしっかり勉強しなければというようなことを言っていた時代がありました。
それまでアメリカが進めていったのは工業化でしたが、その時、アメリカは農業大国なんだと認識を変えたんです。広い国土で小麦、とうもろこし、家畜などの農作物では世界一ですから、その強みを生かしていく。それから今までの技術の蓄積、例えばIT産業、つまり情報通信産業、それらを駆使した形でのレジャーだとか観光だとか、いわゆる第三次産業的なものへシフトしていく方向へ転換していきました。
今made in USAで出回っている工業製品は車ぐらいでしょうか。好みもありましょうが、日本の自動車メーカーの方が遥かに高い技術水準を持っていると私は思っています。
いわゆる基礎科学など基礎的なことはアメリカはすごいと思います。ノーベル賞の数を見てもそうです。しかし製品化する加工技術は日本の方が遥かに優れています。いずれにしてもアメリカは80年代から脱工業化を図って90年代に今の形に作り終えました。
ところが日本はなかなか工業国家を捨てきれない。いまだに膨大な税金をつぎ込んで工業団地を作ったり、コンビナートを作るとか言っていますが、もう時代遅れです。そういうものは中国や、新しく経済発展をしようとする国に譲っていくべきだと私は思います。
世界の状況は、特に90年前後にいろんなことがありました。89年に「ベルリンの壁」の崩壊がありました。これは歴史上非常に大きな出来事でしたね。それまで半世紀近くソ連とアメリカを中心にした東西陣営の対立構造が続いていて、それが世界の政治、経済を支配する大きな構図だったわけです。ベルリンの壁が崩れたというのは非常に象徴的なことだったのですが、その後ソ連が崩壊し、続いて中国もそれまでやっていた改革開放にさらに拍車がかかり、共産主義そのものが崩壊したのが89年です。
しかし、今まではその緊張によって一定の均衡が保たれていたのです。日本もその枠組みの中でアメリカと安全保障条約を結んで西側にくっついて平和を守ってきたのです。しかし、ソ連という脅威がなくなったとたんに中近東や中央アジア、バルカン半島でいろんな問題が起きてきました。それまで抑えられていた民族主義がどんどん出て、独立しようという動きも出てきました。西側陣営もヨーロッパとアメリカの価値観の差が大きく表れて、新しい対立構造が出てきました。結局のところはアメリカ一国だけが強大な軍事力を持って全体を支配するという構図になりかかっているのが現状だと思います。
そういう世界状況の中でソ連と、東ドイツも含めた東ヨーロッパ、中国、ベトナムでざっと20億人近い人がいます。世界の人口が60億ですから3分の1ぐらいの人口がこれまで“鉄のカーテン”“竹のカーテン”の中で、経済的にも隔絶されていたのですが、その20億近い人口が西側のマーケットと89年以降、ドッキングしてしまったわけです。そのことによってヨーロッパでは、旧ユーゴスラビア、ポーランド、ウクライナ、ロシアなどの人件費はドイツやフランスの10分の1です。そういう国と交易が始まる、あるいは投資が始まるとなると、今の日本と中国との関係と同じような関係ができるわけですね。安い賃金で安い商品がどんどん入ってくるということが世界的な流れとして起こったわけです。
これは価格破壊を招きました。今、どこの町にも「ヒャッキン(百均)」というお店がありますね。あるいは「ユニクロ」という新しい時代の衣料品店ができました。これも東西の冷戦が崩壊したからこそできた新しい形の商品です。つまり中国、ベトナム、東ヨーロッパで西欧先進国の10分の1から50分の1の賃金で暮らしていたのですが、そういう低開発国が自由市場に出てきて一体になった結果、起きていることです。
そういう新しい価格構造、新しい経済構造の中で企業はどう対応すれば国際競争に対処していけるのか、或いはどう転換しなければいけないのかということを考える時期がこの10年だったわけです。いわば経済の構造変動期だと私は捉えています。
新しい秩序再編を模索している10年間ですね。決して景気が悪いわけではないのです。構造がどんどん変わるから舞台から去っていかなければいけない企業や商品があります。また新たに舞台に上がってくる企業や商品もある。それに対応できないところは「不況じゃ」「不況じゃ」と大騒ぎをしているということになります。物が売れなくなったのではなくて、それはいらなくなったものです。それを一生懸命売ろうとしても売れないから在庫の山になって赤字で倒産ということになるのです。今ようやく新しい方向が見えてきたというのが日本の経済の状況であろうと思います。
そんなことで日本は明治維新以来の近代工業化に成功し、第2次大戦という非常に不幸な時代がありましたが、戦後の廃墟の中から、君たちのおじいちゃんおばあちゃんたち、お父さんお母さんたちが一所懸命働いて日本を立派な経済大国に育て上げたということは歴史に残る大成功であったと思うのです。
2.こんな日本はほんとうに豊かな社会と言えるのか?
しかしながら、その反面でいろんな問題が表面化してきて、日本は本当に豊かな社会と言えるのかということ。これが今日の私の問題提起です。
例えば、サラリーマン、いわゆる給与生活者は日本の勤労人口の7、8割を占めていると思います。都会ではもっと高い比率でしょう。お勤めをしているわけですが先進諸国には例のない長時間労働です。
日本では、お父さんが夜9時、10時に帰ってくるのは当たり前。週に何回かは仕事といって飲んで帰ってくる。土曜、日曜日はゴルフというのはごく当たり前のように思われてきました。いま少し変わってきましたが、長らくサラリーマン生活はそういう状態でした。
ところが外国に行きますと、こういった働き方はとんでもないことなのです。お父さんは5時、6時には帰ってきて家族と一緒に食事をし、団欒をする。これが当たり前。台所にも立つし、子どもの世話もする。庭掃除もするし、近所の付き合いもする。日本も昔はお父さんは早く帰ってきてご飯も一緒に食べるし、家事をしていました。私の父は明治生まれですが洗濯をやっていました。料理まで作っていました。近所づきあいもする。そういう日本がかつてはあったわけです。
戦後復興期、これはもう大変でしたから、本当に骨身を削って、睡眠時間を減らしてまで働いたということがありました。しかし、経済大国になってもそのスタイルが変わっていないのが問題なのです。いまだに毎晩10時、11時まで仕事をしているとか、あるいは通勤時間が2時間とか。日本にしかない過労死(カローシ)は今や国際語にすらなっています。それと並んで私が一番問題だと思うのは単身赴任です。
山陽新聞紙上に岡山に来られる企業の支社長、支店長の案内が載っていますが、ほとんどの方が単身赴任です。いまだにこんなことをやっているのかという驚きと、怒りを感じます。しかも名だたる大企業やお役所の責任者が妻子を東京、大阪に置いて岡山に来ているのです。これではとても先進国とは言えません。
こういった状態は国際的な視野からみれば、こんなにも貧しい国かということです。つまり家庭にお父さんが何年も居ないわけですから、そんな家庭が決して幸せではないし、豊かとは言えないということです。
それから企業の経営倫理です。いろんな不祥事が目に余ります。劣悪な労働条件で過労死とか、自殺がある。或いは経済犯、賄賂だとか談合、不当表示、虚偽報告、そういったことが毎日のように新聞に出ています。隠ぺい工作もありました。
環境問題にしても企業の手抜き、怠慢がある。目に余ります。これだけいろんな事件が起こっても懲りないということは経営者もそうですし、働いている人の意識もそういうことに対して麻痺しているということです。こういったことも貧しさ以外の何ものでもない。
また、お役所に限って言えば税金の無駄使いがいっぱいです。政府や行政の本来の使命は、国民・県民・市民の利益に寄与することが一番なのですが、そうではなくて自分たちの権益や業界の利益を考える。一部の偏った者のための利益に走るからそのようなことになってしまうのだろうと思います。
それから町並みの醜さです。いっこうによくなりません。
例えば電柱がいっぱいある国は、私が知る限りは日本と韓国、台湾かと思いますが、さらにはそれに看板がぶら下がっています。それも色、形、サイズもまちまちで、これでもかこれでもかというように大きな看板ができますね。そういう醜さは本来日本人が持っている美的感覚とは相容れないものです。こうした広告や景観に全く規制がない。産業優先主義そのものですね。
また、君たちが旅行するとよくわかると思いますが、町並みが全国どこへ行っても同じ、個性がなく画一主義。これも工業化の一つの悪しき産物だろうと思います。画一主義というのは効率主義なんですね。大量生産で物を作った方が安いわけです。住宅にしろオフィスビルにしろ、今プレハブが大流行ですね。工場で作って現地へ持っていくわけですから全国同じものができる。大量生産、大量消費の経済の仕組みの産物です。このようなことはヨーロッパではお目にかかったことはありません。これはある意味、伝統や文化を切り捨ててきた結果だろうと思いますね。環境破壊と同じことです。
これからわが国は産業優先社会から生活優先社会に変わらなければいけないと思います。
一つのわかりやすい例として、昼間、道路をトラックやタンクローリー車が走っている国は、私が知っている限り日本だけです。日本中どこでも、岡山市内でも昼間、堂々とトラックやダンプ、トレーラーが走っていますよね、しかも猛スピードで。こういうことはヨーロッパや東南アジアでは許されません。
わたしが住んでいたハンブルグあたりでは朝8時から夜8時まではトラックは町の中に絶対入れません。入れるのは乗用車だけ。それもいろいろ制限があります。なんと言っても歩行者優先なのです。私が住んでいたのは40年も前ですが、街の中心部には車を絶対入れない、自然と歩行者が共存できる街が40年前から実現していたのです。歩行者天国といったような、とって付けたものではないのです。
これは「こうあるべき生活」という価値観の違いですね。行政だけではなく、我々一般市民もそういう哲学を持たないと実現できないことだろうと思います。歩いている一般市民をトラックが、そこのけそこのけといった状態はまさしく産業優先社会の表れで、生活優先社会ではありません。
こういった状況は行政と業界との癒着があるから起きていることなんです。規制をされると効率よくトラック輸送ができなくなる。そうすると運賃がどっと上がる、いろんなことがネックで経営が苦しくなるのでトラック業界がそれを阻んでいる。そういう構図がいたるところにできています。国民よりも業界の方が優先されているのです。これは経済発展のマイナスの部分だと思います。
こういう国をどう変えていくのかという、どう改めたらいいのかということをこの後皆さんとのディスカッションで進めてもらいたいと考えています。
私は経済そのものを否定しているわけではありません。私も経済人の一人です。経済は国家を作り市民生活を豊かにする基本的な人間の生業ですが、その経済をどう運営するかを考え直さなければいけない時期にきていると思っています。
また、お金の扱い方やお金に対する価値観を考えてもらいたい。お金のために政治をやっている、お金のために政治家になっているようなことは本当にあってはならないことです。そういう政治に対する意識もしっかり養って、政治を変えていかなければいけないと思います。
最終的には「脱工業化」です。工業化社会から新しい経済に変わっていくにはどうすればいいのかを考えていかねばならないと思います。その結果として我々のライフスタイル、生活そのものを変えなければいけないですね。アメリカは大きく変わりました。ヨーロッパは昔から変わらないで、それをずっと維持してきました。世界には我々のいいお手本がたくさんあるのです。高度経済成長のときのライフスタイルをそのまま突っ走っているのはおかしいし、そのために豊かさからは程遠いさまざまな社会問題が生まれているという状況に思いを致してもらいたいと思います。
この後、テーマごとに5グループに分かれて討論。
<1グループ>
『行政で税金がムダ遣いされず、ほんとうに国民の利益になる用途に使われるために何をどう変えればよいのか。』
公共事業の話をした。公共事業は首長が決める。公共事業をしないと票にならない。僕らが公共事業をやる議論に参加する。専門家も加わることが必要。税金に対する僕らの意識を高める。選挙、政治に参加する意識を家庭内でも高めることが必要。学校で教わることは教科書の範囲から出ないので、それ以外の社会の課題にも関心を広げる、おとなになる準備をする。マスコミの報道にも関心を持つ。マスコミの報道の仕方も考えてもらいたい。
<2グループ>
『汚職が絶えないのはなぜか。なくするためにはどうしたらいいのか。』
政治家への献金、汚職、選挙で票をお金で買う。それはお金が欲しい気持があるのでなくらない。自分の1票は自分で守る。一人一人のモラルを高めることが必要。
<3グループ>
『ビジネスは利益追求や“金儲け”だけを目的にしてよいのか。何が大切だと思うか。』
ビジネスは上下関係が強い。大企業を規制する法律、決まりを作ることも必要。誰のための法律かを考えて作る。
<4グループ>
『日本人がもう少しゆとりのある生活をとり戻し、充実した家庭生活や心身ともに健康な労働環境を実現するにはどうすればよいか。』
スリランカに行った人の話だが、スリランカは貧しい国だが、メリハリがついた生活をしている。ヨーロッパでは家に帰って家族との団欒の時間を持っている。家族と一緒で心にゆとりが生まれる。
<5グループ>
『町並みを欧米のように美しく保つには何が必要か。』
みんなの意識を高める。法律で規制することも必要。
短い時間に内容の濃い討論ができたようですね。
新聞などを読んで政治や行政、経済に関心を持つことがいい意味での自分の意見を持つことになっていくと思います。君たちはいずれ選挙権を持つことになりますが、その時にどういう人を選ぶのか、どういう政党を選ぶのかは今から関心を持って勉強をしていないといけません。選挙のたびに投票率が低いという現実があります。政党や政治家もよくないけれど、一番いけないのは選挙民です。きちっと投票すること。投票するためには自分の考え方、自己主張をきちっと持たなければいけない。
日本の国はどうすればよりよくなっていくのか、21世紀、君たちの時代にはどういう日本を作っていくのか、つまり自分たち一人一人がどういう生き方をするのかが大切なことだと思います。
そのためにも明治維新以降の経済発展の歴史の中で、日本がどのように変わってきて今日あるのかという縦軸ですね。それから国際比較。アメリカや中国がどういう国であるか、そういう比較が横軸になります。歴史と国際比較の縦軸と横軸の座標軸の中で自分たちのあり方を考えていくことが大事だと思います。今日はそのための勉強であったと考えてください。
3.これからの日本
「脱工業化社会」で、日本が次なる経済発展をどこに求めていくかということを少しお話したと思います。
例えば、この春、小泉内閣が「観光立国」を提唱しました。今やっと日本に500万人の観光客が来るようになりましたが、10年間でこれを倍にしようということです。
500万人というのは世界のランクでは40番か50番目になるそうです。第1位はフランスで7000万人。羨ましいと思うのですが、今日最初に沖垣先生がフランスのニースのお話をされましたが、ニースは大きな投資をして施設をいっぱい建てて、海を埋め立ててリゾートビーチを作ったわけではないのです。
何百年も前からあるそれなりの自然、そこに人間が住みついて、伝統文化を生かしたオペラ劇場や教会、広場がある。そうした街の美しさが観光資源になっているわけです。ワインだとかフランス料理などもその土地に根ざした昔からの生活そのものなのです。そこに素晴らしい観光資源があっていろんな国から7000万人もの観光客が来るのです。
一人当り20万円ぐらいお金を使うとすると年間では14兆円ぐらいになりますよ。これからはそういうものを日本の産業に考えていきたいと政府は考えたわけです。そのためには京都のお寺だけではなく、日本の城下町や温泉も観光資源になる。また、新しい観光資源としてどういうものを提案するかということもありますし、外国のお客様をもてなすという精神的なもの、或いはマナー、宿泊施設といったものも変えていかなければいけないと思います。これからは自然を大切にする、伝統文化を大切にする、そういうことに重点を置いた経済発展を考えなければいけないと思いますが、どうでしょうか?
【塾生】そうですね、日本は今までリゾート施設でも、テーマパークでも、作ってからどうしようと考えてきたと思うんです。ところが最近のテレビで見たんですが、黒川温泉というところに今お客さんがたくさん来ている。なぜかというとレジャー施設も何もないけれど緑がいっぱいある。それを触らないでそのままに置いておこうとしたところに人気があるということです。
フランスにしてもハワイにしてもありのままの自然を大切にしている、そこに人が集っている。何もしないサービス、何もしない観光です。だから新しく物を作るのではなく、今あるものを大切にしていくことが大切ではないかなと思いました。
【今西】これからの日本は文化だとかスポーツだとか医療、福祉、教育といった方向に、大きく舵取りを変えていかなければいけないということだと思います。
【塾生】昨日私は、他のところの勉強会で、日本は今まで土建屋さんを中心に経済成長をやってきた。これは世界に例を見ない異常で異質な国策であったと学んできました。1990年からの経済停滞の中で、今、経済の構造転換が図られないといけない。
具体的に言うと土建屋さんをお菓子屋さんにするとか、土建屋さんの社員が福祉業界やIT産業の研修に行くとか、またそういうことに積極的にお金を使う、そういう絶対的な構造転換を図って、結果としてはハードでなくソフトな事業でこれからの生活を作っていく、そういう具体的なことに税金を使って転換をしていかなければダメだろう、という勉強会でした。産業構造を変えるということだと思います。
【今西】手前味噌ですが、岡山の経済同友会の中に教育問題委員会という専門委員会がつくられていまして、これは岡山の経済発展を考える大きな柱の一つです。今この委員会で、私は岡山の大学は一大教育産業たりうると、まず県内にある15大学を束ねて、大学コンソーシアム岡山を作ることを提案しました。
岡山市の人口63万人の内3万人、5%が学生です。京都は140万のうち14万だそうですが、岡山もたいしたものです。人口に対する大学の数、大学の定員の比率を見ると岡山県は全国で4番目だそうです。東京が1位、京都が2位、山梨が3位です。ですから「それを核にして岡山の経済発展を考える。まず全国から優秀な学生が来て岡山で育っていく。これはすごい経済効果で、そこからいろいろ発信することができる」と提案したんです。委員の皆さんからは「いやぁ岡山はそうはいっても東京や京都のように就職できる企業がない」といったご意見も出てきました。
私が申し上げたのは「そうではなくて、逆にいい大学があっていい教育機関があればいい産業は生まれてくるし、外からもやってくる。京都は、たくさんの学問の素地があり、文化の歴史があるから新しいベンチャービジネスが育ってきた。実際に京セラを始め新しい企業がどんどん育ってきた歴史があります。外国でもスタンフォード大学を核としたシリコンバレーなど、そういう例がいっぱいあります。まず就職先を考えるのではなくて、まず大学ありき。教育機関、研究機関ありきで、そこからいろいろな産業が生まれてくる」と言いまして、昨日の委員会でそういう結論になったものですから、皆さんも応援してください。
【塾生】10年ぐらい前に岡山に国連大学を誘致するといった具体的な話があったらしいですが、それが潰れてしまったんですって。惜しかったなと思います。そのとき実現していればまた、違っていたかもしれないと。
【今西】そういうことに対して行政が冷ややかだということはよく聞きますね。今後は、県知事にも市長にも協力願うよう提案しようということになっているのですが…。
いずれにしても脱工業化社会、日本の方向性はそういうことだと思います。ヨーロッパやアメリカにいい先例もあります。そういう新しい経済社会、ソフト、サービス中心の新しい産業構造になってきますと、女性の発想、感性が一躍脚光を浴びるようになる。教育もしかり、医療福祉文化、レジャー、観光すべて女性の発想、お客さんも女性が多い。
日本の企業や政治がうまくいっていないのは、よく見ていくと、男性的発想、男性社会がいろんな問題を起こしている、政治なんかその最たるものだと思います。もっと女性に活躍してもらう。今日、表町商店街のおかみさん会の高橋さんも来ておられますが、女性がどんどん町おこしをし、経済を変えていかなければいけない、それができる時代になってきたと思います。
私たちは「企業戦士」という勲章をつけられた苦い経験があるのですが、これからは私生活と仕事が両立できる社会をつくることです。
これは今、日本の社会で求められる最大のニーズであろうと思います。先ほどの発表にありましたように、お父さんが夕食時にきちんと帰ってくることが、子どもの教育にとっても要件ですし、社会の安定にとっても大事なことです。
今、DVだとか家庭の問題、教育の問題が色々取沙汰されていますが、その根源をたどっていくとそこに行き着くのではないかと思います。学校の先生方がよく目の敵にされるのですが、根源は家庭なのですね。それについて、特にお父さん方は意識が低いと思います。経済同友会で私は「単身赴任なんてとんでもない」と10年前から言っているんですが、皆シラーッとしていました。最近はだいぶ同調してくれまして、理解を示す方向に変わってきています。
新しい言葉で「ワークライフバランス」というのがあります。家庭中心の私生活と仕事が両立する生活ということです。非常にいい言葉だと私は気に入っています。私も仕事人間といわれて久しいのですが、仕事は大好きだし、仕事には全力投球します。だけど同時に仕事以外の私生活も楽しく充実させたいと思うのです。これを一つの理想と心がけているわけです。
そういうふうにライフスタイルを変えていかないと、「働き蜂」とか、「蟻のような日本人」と言われている限りは世界から認められないですね。つまり日本人のライフスタイルを認めてもらえないということは、日本人が世界へ堂々と胸張って出て行かれないのです。ハードの分だけでなくソフトや精神面、ライフスタイルが世界に受け入れられるような、尊敬されるようなものなっていかなければいけないと思います。
後に最近読んだ本を並べていますが、その中にオランダ人で日本に長く住んでいる辛口のジャーナリスト、ウォルフレン氏が、日本を愛するがゆえに非常に厳しく「日本が誇る生産力の大きさは、国民の時間的貧困によって支えられている」と書いているのですが、まったくそのとおりだと思います。私生活を犠牲にし、時間の使い方を犠牲にした結果、世界一の生産力になっても自慢できないということですね。つまり生産力が大きいということが豊かさを意味しないというのはそこなんです。また、同氏は「今の日本には、日本人が自信を持って他国に勧められるライフスタイルが存在しない」と言っていますが、皆さんはどう思いますか。
【塾生】本当におっしゃるとおりで、留学生からは、夫婦でも家族ででも、会社から帰ると「さあ皆でオペラを見に行こう」というようなことが日常茶飯事行われているとよく聞くんですけれど、日本ではそんなことはまずありえないなあと思いました。
私自身の今の生活もゆとりがないのですが、ゆとりがないと人間の心の豊かさとか、教養とか、いろんな意味で広い視野を持った人間に育ちにくくなるのではないかと思います。学生が一人で必死で勉強するというようなことは一時期はあっていいことだと思いますが、やっぱり人間は最終的には一人で生きていくわけではなく、誰かと一緒に家庭を作って生きていくわけですので、そこで共有しているのは心で、それを育てていかないといけないと思います。今、心が大事であるということがどれだけ自覚されて子どもが育てられているのかなあと思います。皆で心を育てていこうという生き方を意識していければと思いました。
【今西】最後になりますが、「個の確立」、つまり個人、個性、自分らしさをしっかり作り上げることが大事だと思います。また、同様に相手の個性も尊重する、それが個人主義の基本であるし、出発点です。
しかし、これが戦後60年近くなるけれどできていない。このことが日本を非常に貧しくしていると思います。これだけ社会が豊かになれば一人ひとりの主義主張や趣向は違うはずですが、何故か皆ゴルフをやる、マージャンをやる、背広を着る、同じスタイルのサラリーマンがたくさんいます。いわゆる集団志向で、「皆で渡れば怖くない」「寄らば大樹の陰」。これは外国人から見ると「集団があって個人なし」に見えるんです。そういう没個性、画一主義が、個人の豊かさを失わせ、個々のライフスタイルを作りにくくしているのではないかと思います。それがまた日本の民主主義の成熟や、自由で豊かな国を作ることを大きく阻んでいるんです。そして国際社会から見ると、いびつで異常な国に写ってしまいます。
いずれにしても真の豊かさは個性と多様性、選択の自由、これが享受できる社会からだと思います。しかし、これは意識を変えるということですから、大変な骨の折れる作業です。
そのためには自分らしい生き方を学ぶ。自分の頭で考え、心で感じ、そして自分の言葉でしゃべり、いい人との人間関係を作り、より多くの友だちを作ることです。人間社会の基本は人間関係ですからそれを豊かにしていく。このことが豊かな国を作っていく一番の要件であろうと思います。それができないと、たとえ国際社会へ出ても、国際人にはなれません。まず、国際塾のような身近なところで新しい人間関係といい友情を育てていくことから始めましょうね。
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