講義録

私たちの国・日本海外からの目で見る

講師:沖垣 






(講義内容の二次加工については、著作権を放棄しておりませんので、必ずお問い合わせください)

 

第1回以後の近況

 7月24日の第1回から2週間たちました。この間に何か面白いことがあった人はいませんか?

 この間、私にあったことを言いますと、725日にインドネシアのA.H.タンラ教授が岡山で外務大臣賞を受賞されたんです。タンラ教授は広島大学を卒業されたのですが、日本に大変お世話になったということで、日本とインドネシアの間でたくさんの留学生を育ててこられた方です。外務大臣賞の授賞式は普通は東京ですが、彼はAMDAインドネシアの会長さんでもあり、岡山にもかかわりがあるということで、珍しいことに岡山で授賞式があったのです。実は僕はインドネシアにある彼の大学の客員教授なんです。その大学はまずバリ島まで飛行機で飛んでいって、1泊してまた飛行機で飛んでいくようなところにあるのです。

外務省の受賞式を岡山でするということは、それだけ岡山が国際的にいろいろな活動をしているところだということなのです。

2番目に、これは私の本職ですが、前回の講義の時に細胞の写真をお見せしたでしょう。あの写真は体の中を細かく特殊撮影したんですが、あれは以前NHKが人体の中は宇宙のようなものだという特集「驚異の小宇宙・人体」を組んだときのもので、728日に再放送がありました。突然NHKから再放送の電話がありまして、何年かぶりに自分が作った番組を見ました。懐かしかったです。

それから、84日、5日に、イスラエルとパレスチナの高校生が5人ずつ岡山に来ました。今、イスラエルとパレスチナは戦争状態にあるんです。それは国境線があってのトラブルではなく、この説明にはとても時間がかかるんですが、互いに争いをしているのです。そして子どもたちが国を越えて話をするというようなことはまず不可能な状態なんです

。彼らの話によるとパレスチナの人は学校へ行くのに毎日
10回位、身体のチェックをされるんですって。それぐらい厳しい状態のイスラエルとパレスチナの高校生が日本で会って、2人ずつがひとつのテーマ「平和」について話し合いました。また、日本とイスラエルとパレスチナの高校生が僕の司会で英語で2時間ぐらい討論しました。彼らは「我々はもう戦争をしたくないのだということを知ってほしい」と言っていたことがとても印象的でした。

イスラエル大使も、パレスチナ代表も東京から来てくれましたが、大使が言うには、「怖いことが何にもない日本で彼等が話し合えたのはすごくいいことだと思っている。けれども、来週国へ帰ると彼らは会えなくなる。そして、そういった自分の国にがっかりするだろう、それが怖い」と。

また、「日本の地方の岡山というところに住んでいる人たちが、イスラエルやパレスチナのことをよく知っていて、みんなが私たちを心配してくれているということ自体が信じられない、すごく喜んでいる」とも言っていました。  


それからここに、「タイム」という週刊誌があります。僕はこの雑誌を購読して41年目になりますが、この中にはアジアの特集が組まれていて、84日号にラオスのことが載っていました。ラオスの一番恵まれない貧しい人たち、この人たちは何10年も他の民族から迫害され、住むところを移動している民族なんですが、そこへオーストラリアの新聞記者が取材に行きました。

原住民の人から「あなたには奥さんがいますか?」と聞かれて、「いますよ」と奥さんの写真を見せたんですね。海辺で奥さんが座っている、何ということはない写真なのですが、見た人は「この世界には天国に住んでいる人たちがいる!」と言ったそうです。「努力すれば私たちも天国のような生活ができるかもしれない。この写真を是非ください」と、新聞記者からこの写真をもらって森の中へ消えて行ったそうです。たった
2ページの記事なんですが、日本の新聞はこういう風には書かないでしょうね。僕はある種の感激を持って読みました。

ここまでが私の、この2週間にあったことの報告です。



 前回、国とか平和の話をしました。人間の話をしょうと思っていたのですが、宇宙の話をしました。人が地球に住んでいるということを考える時に、地球だけではなく、もっと広い宇宙のことも考えたほうがいいと思ってお話ししたのですけれど、どうも説明不足だったと思っています。

 そうしたところ、7月27日の朝日新聞に、柳澤桂子さんが書いた「根深きもの、それが戦争」という文章が載っていました。実は僕は彼女がお茶の水女子大の学生だった時から知っているのですが、この人は著名な科学者なのです。病気で体が動かなくなってベッドで寝たきりで本を書いている人です。その人が、人間はどうしてこう、何百年も何千年も戦争をするんだろうと書いているんですが、タイトルが「宇宙の底で」というのです。つまり、宇宙の中のある星で人間がいがみ合っている。星はきれいに輝いているが、地球はドロドロしていると言うのです。僕と同じようなことを考えている人がいると思って安心しました。

前回、皆さんに僕の講義の採点をしていただきました。塾生の皆さんだけでなく、大人のオブザーバーの方からも頂きましたが、塾生の皆さんからのものについてお答えします。ずいぶんたくさんの人からよい点数を頂きました。満点を付けた人がたくさんいました。これはありがたいことだと思いますが、頂きすぎです。物に満点はありません。「マンテンは朝のテレビ番組だけです」(笑)。

中にはかなり厳しい点数もありました。そして、「難しかった」という人が何人かありました。大体こういう話はなるべくやさしく話しても、尚難しいものがあります。この難しいことにチャレンジするのも勉強ですので、「難しいからだめだ」で終わっては勉強になりません。

 また、「当ててください」という人も何人かいました。

でも突然「はい、あなたは?」と当てると、当てられた人はまだ準備ができていないので、自分が質問したいことだったら答えられるけれど、全然違うことだったら答えられないでしょう。だからわからないことがあったら「ちょっと待って。ここがわからない」と言ってください。そうしたら僕も「わからないな〜」ということが出てくるかもしれない。(笑)そうしたものですよ。

 いくつかの具体的な質問にお答えします。

 テキストに「国籍のない人がいた」と書いたのですが、それがよくわからないという人がいました。

僕たちは全員国籍をもっています。僕は日本の国籍を持って、アメリカの永住権と、カナダの居住権を持っています。そうすると「おまえ、何者じゃ」と空港など入国するときに、どこかで引っかかります。つまり日本の国籍はあるけれど100%日本人ではないということです。

もう一つ、世の中には国籍のない人が結構いるのです。
例えば、北朝鮮の国籍の人が昔日本に住んでいて、その後北朝鮮に帰ったけれど、そこでの生活が苦しくて中国へ脱出するときにパスポートを落としたとします。その後やっとのことでこっそり船で日本に来たというような場合、この人はもともとは日本に住んでいた「北朝鮮の人」ですけれど、今は中国から来た「パスポートのない人」です。ですから何国人でもないのです。

身分証明のない人は無国籍ということになります。そういう人はヨーロッパにはたくさんいます。パスポートを持っているということは身元がはっきりして国がその人を守っているということなのです。そして、それはすごくありがたいことなんです。世界中には国から守られない人がたくさんいるということを知っていてください。


 それから、「外国人」という言い方があまりはっきりしないと言ってくれた人がいます。
そのとおりです。
私もそう思います。前回、国際ホテルの話をしましたね。どうして単純に外国人、日本人と分けることができるんだろうという話をしましたが、実は国籍のない人もいますし、国籍がふたつある人もいるんですね。国籍がふたつあってあちこちに住んでいる人もいるんです。そういう人は何国人でもないのね。世界中が自分の国なのです。だから日本人と外国人というように単純でないということを知っていてください。

また、一方で「日本人はこういうものだ」という自分なりの考えを持ってください。中国の重慶でのサッカーの応援についても、「ただ喧嘩をするのはよくない」というだけではなくて、いろいろ考えてください。

 3番目に「自然科学の話を聞きましたけれど、やっぱり自然科学は苦手です」というのがありました。それはそれでいいのです。自然科学が一生苦手な人もいます。
僕は漬物が嫌いです。(笑)キムチも、ピクルスも、漬物が近くにあると僕は食欲がなくなります。それではいけないと親にものすごく叱られました。でも未だにダメです。なぜだといわれても仕方がない。好きなものと嫌いなものはあるし、なんとなく好きな国も嫌いな国もあるのです。もともと人間はそういうものです。その中で、あまり好きでない人とも付き合わなければいけない世の中だから、どうやって付き合うか、喧嘩する時はどういうときに喧嘩するとかということを勉強するのが、この塾でもあります。


 「一人でしゃべってないで、みんなの意見を聞いてください、討論させてください」というのがありました。
全くそのとおりです。
逆に「5時間でも6時間でも話を聞かせてください」というのもありました。討論をするのはいいし大切だと思うのですが、討論するためには中身がないとダメなんです。英会話と一緒なんです。「My
name is」は100回言っても、「My name is」なんです。私はこう言っていて、あなたはこう言っているということがないと議論にならないでしょ。討論するためには最小限の知識がなければならない。この塾が11回あるとすれば、最初は話を聞いて、その中から自分なりにわかるところ、わからないところとか、これから勉強したいこととかを整理しないと質問にならないと僕は思っています。皆さんが討論できるというのであれば、そのように教えてください。僕は賛成します。

 次回からは講師が別の方になります。その方々はこの塾で話すのをすごく楽しみにしていて、自分の思いを語りたいと思っているんです。そうすると質問の時間がなくなるんです。だから何度も言うように皆さんの方から質問をしてください。そうでないとどうしても講師の話が多くなってしまいます。なるべく討論するようにしましょう。

 それから僕にとって大切だと思った質問は、「科学者は良心を忘れていると言ったけれども、科学者の多くは良心を持って研究しているのではないですか」というものです。この方には僕が話したことが「科学者には良心がない」と聞こえたようです。「良心がない」と言ったように聞こえたとしたら、僕の言い方の間違いです。そういうつもりでは言っておりません。ただいくつか言いますと、科学の発達は、最初の思いとは違う、思ってもみなかった方向へ行くことがあるのです。なぜならば、お金が関わったり名誉が関わったりするからです。

ノーベル賞のノーベルさんは何をした人か知っていますか? 
そう、ダイナマイトを発明した人ですね。ダイナマイトは、今から
120年ぐらい前に発明されたのですが、道路を作るときなどに使われ、すごく便利なものです。そうしたことのために作られたのですが、人はその爆発力を悪いことに使ったのです。ノーベルさんの思いとはぜんぜん違った方向に使われて、大儲けする人も出てきた。ノーベルさんはそれを悩んで、自分で儲けたお金は平和のために、世の中のために使いましょうといって科学者を誉めるノーベル賞をつくったんです。

 最初に発見したり発明した人のほとんどは嫌がられたり、無視されたり、場合によっては罰されたりすることがあります。それは今まで世の中になかったからです。しかし、だんだんに世の中で使用されるようになると便利だということがわかり、それが皆さんにわかると、あの人はいい科学者だったんだということになるんです。

そういう風に最初から良いもの、悪いものということではないのです。その中の一番代表的なのは、前回もお話した原子爆弾です。原子爆弾を最初に作ったのは、アメリカの最高の科学者たちですが、科学者の半分は反対で、原子爆弾を作る場から去ってしまった。追い出された人もいます。結局半分の人たちが作ったんですね。なぜ作ったかというと、その頃のドイツがあまりにもひどくて、ドイツがアメリカよりも先に原子爆弾を作ってしまったら世界はだめになると言ってアメリカが作ったんです。そこまではいいんだけれど、大変不幸なことにドイツはそれまでの間に潰れてしまった(負けてしまった)ので、日本にぶつけたんですね。原子エネルギーの扱い方は最初とは違う方に行ってしまったんです。

今や、原子爆弾は絶対に作ってはいけないということになっているけれども、まだアメリカは核実験をやっています。彼らは彼らなりの不安があるみたいですね。


原則的には、科学者は良心で研究しています。でもどこかが崩れると、お金がほしくなったり勲章がほしくなったりする人が出てきたりすることがあると言ったのです。全部がそうだと言ったわけではないのです。



2.私の国境物語

A.平和な世界と国境

ヨーロッパでは数日間車で走ればたくさんの国境を通ることになります。日本は島国ですから、海のずーっと向こうに行かないと国境はないですね。

 国境の「境」はABの“さかい”でしょう。国際の「際」というのは、“キワ”とか“フチ”とか“ヘリ”とかという意味なんです。ですから「国際」は国と国との間という意味です。国境線を通って向こうへ行くということは場合によってはぜんぜん違う世界に行くということにもなるので「国際的な話」をするにはまず国境の話からしましょう。


B.海と船の旅:空と飛行機の旅から

まず、私が船で国境を通った経験をお話しましょう。

テキストに「Yhama」と書いてあるのは、「横浜港」のことです。僕はカナダから日本に荷物を送るときに、何10個も「Yhama」と書きました。「HNL」はホノルルの略です。大体、世界的には地名は3つの字に略されます。SFOはサンフランシスコ、LAXはロスアンゼルスのことです。関空がKIX、成田がTKOかな。ニューヨークの空港はジョン・F・ケネディ大統領の名前を取って、JFKといいますね、パリの空港はシャルル・ドゴール大統領の名前を取ってCDGエアポートというのです。

僕は、ロスアンゼルスから横浜まで、ブラジル丸という1万5千トンぐらいの船に乗って帰ってきました。奥さんはアルゼンチナ丸という船で太平洋を往復しました。ほとんどの人は飛行機ですから、今時、太平洋を客船で往復するというのは珍しいことらしいです。「客船で太平洋を往復したなんて、そのうちギネスブックに載りますよ」と言われたので、僕は奥さんのことを「マダムギネス」と呼ぼうかと思っているんですけれどね。(笑)

船に乗ったところは日本で、船が着いたところはアメリカです。どこから国境が変わると思いますか? 船の場合の国境線は、船のタラップを上がっていって甲板に立ったところから、中間地帯になります。

飛行機は乗るときにパスポートとチケットを出すでしょ。するとパスポートにポーンと印鑑を押してくれます。そのときからもう日本ではないんです。飛行機に乗っている間はいわば無国籍なんです。(手続き上のことですが)何となくおかしいでしょう。だからこそ、パスポートを持っていて「私は日本人です」という証明がないと危ないのです。

僕らの若い頃は日本は貧しい国で伝染病も多かったから、結核であるかどうかを調べるために胸部レントゲン写真と、いろいろな病気がないという証明書を手に持って検査官に見せてゲートを入ったという経験もしました。今はフリーパスですけれどね。

それで時間はどうなるかというと、日本とロスアンゼルスでは17時間の時差があるのね。飛行機の中でどうやって時刻を決めるかというと。パイロットとか乗務員はどうか知りませんが、乗客は飛び発つと到着地の時刻に時計を合わせるのです。だから向こうの時間に応じて食事が出るので、変な時間に朝ご飯が出たりするんです。ロスアンゼルスに朝8時に着くとすると7時頃朝食が出されますが、日本時間ではお昼ごろ「朝ご飯です」と出されるようになるわけです。

 船の場合は着くまでに何日もかかります。横浜を出てサンフランシスコに着くまで17日間かかりますので、「毎日寝る時間に30分ずつ時計を進めなさい」と言われるんです。そうすると目がさめた時は、昨日より30分ずつ進んでいるということになるわけです。2日目にもう30分進めたら、日本を出た時より1時間進んでいる。こう進めていくと、サンフランシスコが見える時にはアメリカの時間に調整されているということになるのです。僕は乗るまで知らなくて面白いなぁと思いました。それで計算してみたんですが、計算の方が難しかった。

 船には何10日も乗っているので、船の上で子どもが産まれることもあります。その場合、その子は最初に着いた港のある国の法律に従うことになっています。日本人でも、アメリカに最初に着いたらアメリカ国籍です。アメリカ政府がにこっと笑って「わが国民が1人増えた」ということになるのです。(笑)

また、船は港に入るときに、水先案内人という人が先導して接岸します。サンフランシスコの港に船が着く時に、「水先案内人が来ますから、興味のある人は見ていてください」と言うものですから見ていると、小さい船がポンポンポンポンと来て、その小さい船から案内人が長いはしごを登ってきて、客船の船長さんと2人で立って、「こちらに行って」、「あちらに行って」と指示するんです。港を出航する時にも、同じような水先案内の人がいて、外へ出るまで指示するんです。コンピュータではなく人間が教えるんです。安全なところまで行ったら、その案内人は縄ばしごを降りて小さな船に乗って帰るんですが、それはとても印象深いものでした。

 船で思い出したのは、ロスアンゼルスで船に乗って、サンフランシスコに着いたときのことです。サンフランシスコで1泊するので、丘の上のレストランへ行ったんです。そこで食事をしようとすると、おまえはどこから来たかと言われたので、「あの船からきたよ」というと、頼まない料理がたくさん出てくるんです。これは払うのが大変だなと思ったので、「これとこれとは僕が頼んでない」と言いますと、「あなたあの船の持ち主でしょう、リッチでしょう」と言われて、「冗談じゃないよ、何万トンの船長のわけがないでしょう」。すると、「ああそうなの、ではご馳走しましょう」とタダにしてくれた。(笑)旅っていうのはこのようになかなか楽しいものです。(笑)

 それから船は必ず前に進む方の左側だけしか使わない。なぜか緊急時以外は右側は使わないのです。それを真似して飛行機も左側しか使わない。飛行機の右側から乗った人はないはずです。それは船の伝統を守っているのだそうです。

 国境の話に戻しましょう。関西空港からパリへ行くとします。シベリアの上を通って、ヨーロッパの上を通ってパリへ着きますね。パリに着くまではたくさんの国の上を飛んでいるわけです。でも国境線はないですよね。

 飛行機の場合は、出国の際ハンコが押されたら無国籍で空中には国境がないのですが、事故があって降りたらその国の命令に従わないといけないのですね。でもそうしたことがない場合はパリまで中立です。

シベリアについては僕には思い入れがあるのです。僕の兄貴がシベリアで死んでいるからです。飛ぶ度にこの辺かなと思います。本当に何もない、何もないシベリアに4年も捉えられて殺されたんです。4年間で着ていたのは日本の軍隊のボロボロの服だけ。下着も何もなく1着の軍服を4年間も着ていたらしいです。幸い兄貴はその町の人が、亡くなった日本の兵隊さんたちが可哀相だと、立派なお墓をつくってくれてきれいにしてくれているらしいです。僕はまだ行っていないんですけれど、兄弟たちは行きました。シベリアの上を飛ぶとね、あそこで兄貴は死んだのかなあと、戦争中のことを思ったりします。

 空はそうだけれど海はどうかというと、海には縄張りがあってね、中国と日本の間には問題が起きています。今、中国側が海底でガソリンを掘っているのですが、それを日本が問題にしている。中国の土地で掘っているのになぜ日本が問題にするのかというと、ガソリンのある床は日本側に続いていて、採油口から吸い上げているのです。そうすると、日本側の床はやせてくるわけでね、地下の権利をどうするかと大問題になっているのです。

 日本の国内でも地下50メートルまでは自分のものですが、それ以下は誰のものでもないと決められているのです。だから地下鉄を通すことができるんです。



C.陸上と電車・バスの旅から

この地図はわかりにくいようですが、上の方を見てください。昔はドイツという国はひとつでした。今もひとつですが、途中でふたつあった時期があります。地図のFRはフランスです。お隣はフランスだということです。ここが西ドイツと言われた時期があります。真中の線の右にEとありますがこれは東ドイツです。東ドイツの向こう側はポーランドです。西ドイツは自由なフランスとくっついていて、東ドイツはソビエト(現ロシア)にくっついていた。その真中に国境があって、西ドイツ東ドイツという時期がだいぶ長くありました。主として西ドイツという方はドイツが戦争に負けてUS(アメリカ)、GB(イギリス)それにFR(フランス)が占領していたんです。そして東ドイツはソビエトが占領していたんです。ところが東ドイツの中にベルリンという町がありますが、このベルリンという町もふたつに分かれていて、西をアメリカ、イギリス、フランスが占領し、東をソビエトが占領したんです。ベルリンの上の縦の線、ここが国境だったわけです。

                    <図は省略>

そこで下の拡大図を見てください。上が東ベルリン、下が西ベルリンです。そこに何10メーターか人が通れないようなところがあって、道路はぐにゃぐにゃと蛇のように曲がっています。そこは通る人や車をチェックするためにスピードが出せない道です。道路でないところは石ころ、瓦礫があります。人がそこを逃げようとしますと石の上はなかなか歩きにくいので芝生の上にぽんと降りると、地雷が仕掛けてあって爆発するようになっているんです。西ベルリン側にはお墓がたくさんありました。東から逃げる途中で撃たれたり、地雷を踏んで死んだ人のものです。 

僕はアメリカ人とこの蛇のような道を行きました。途中で調べられましたけれど、1人ずつパスポートを見せてゆっくり歩くのですが、コンクリートの壁のところに「見張塔」と書いてあるでしょう。そこにロシアか東ドイツの兵隊が鉄砲を構えて、下を通る1人1人の動きを追っているんです。見ると撃たれるような気がするのですが僕はそれを見たい。また、写真を撮ると3ヶ月間拘束されるんだけれども写真も撮りたい。東側へ行ったら街は寂しくてね、西側のキラキラした光が壁を越えて見えるのです。

帰り、西ベルリンに入る時は一緒に行ったアメリカ人はフリーパスで、僕だけ止められたの。その頃の日本には「赤軍」といって、テロリストの若者がいたのですが、その人たちと間違えられかけたのです。カメラから弾が飛び出すかどうか、ピストルを仕掛けていないかどうかを調べるのです。そんなことがあって西ベルリンに入ったとたんに、はぁ〜と気が緩んで、「よかった〜」と感じました。自由というのはそんなものです。 

ドイツでは今から156年前にそういう状態がなくなりましたが、どうしてなくなったのかということは日本人にはあまり知られていませんね。

西側は何とかしてあの壁を壊さないとヨーロッパは平和にならない、でも軍隊を出すと戦争になるのでそれは避けたいと、25年ぐらい前にアメリカの大統領がローマ法王と相談したんです。ローマ法王はヨーロッパに大変影響のある人で、ある作戦を立てました。東側にも宗教は少し認められていましたから、宗教のためと称してFAXとかパラボラアンテナとかを送ったんです。パラボラアンテナを西の方へ向けると、西側のテレビが見えるんです。それを見た東側の人たちはそれまでソビエトの情報だけを信じていたのですが、これはおかしいと気がついたんです。壁が崩れる前の時期には、アパートの西側の部屋はすべて詰まって、東側は空きばかりでであったと言われていました。

こうしている内にソビエトはだんだん弱くなってきました。なぜ壁が崩れたかというと、「地元守備隊長の変心」と書いてあるでしょう。地元の国境守備隊長が東ベルリンの人たちを見て「これはもうあかん、カギをはずして昼寝していよう。昼寝をしているうちに門を開けようではないか」ということになり、そこで一晩の内に何10万人という人が壁を越えて、それで崩れたんです。

ですが、壁が崩れるまでにはたくさんの人が死んでいきました。そういう犠牲の上で壁が崩れたのです。

現在もそういう国がたくさんあります。北朝鮮もそうです。皆さんもテレビなどを見て、知っていただきたいと思います。




D.国境は国と国との間にだけあるのか

ところで、国境は国と国との間だけにあるのでしょうか。さっき言ったように、国境はAという国とBという国の間にあるのですが、ひとつの国の中にも国境のようなものがあるというカナダでの私の体験をお話しします。

カナダは州が10あります。東側が大西洋、西側が太平洋です。北は北極、南はアメリカです。アメリカの一番寒い所よりもまだ寒い所だと思ってください。カナダは州のことをprovinceといいます。これはフランス語から来ているのです。この10州の内の8州は英語が標準語です。ひとつの州、ニューファウンドランド州は英語とフランス語の両方を使います。そしてケベック州です。この州はフランス語しか使いませんし、店の看板は全部フランス語です。英語の看板は許されませんでしたが、近年は小さな文字ぐらいはよいそうです。

しかし、地図の左に点々があるでしょう、これはオンタリオ州という英語が標準語の州なんですが、その中にあるカナダの首都オタワという都市だけが英語とフランス語の両方なんです。こういうところに住んでいる人たちと付き合うのは大変なんですよ。電話帳も英語とフランス語の両方があります。国の法律も英語とフランス語で書いてあります。大変ですこれは。全員が2ヶ国語を使えるならいいですが、そうではないのに全部2ヶ国語が書いてある。バイリンガルですが税金の無駄遣いですね。

それからケベック州(PQ)のモントリオールは、町としてはフランス語と英語がごちゃ混ぜのところなんです。僕はオリンピックがあった年の前後にこの町で暮らしていました。町の中に地下鉄が走っているのですが、左にUMと書いてあるのはマッギール大学という英語圏では有名な大学。右にUMLとあるのはモントリオール大学で、フランス語の大学では世界で2番目に大きい大学。つまり真中の線の右にカナダでもっとも大きい大学がある。そこから歩いていける距離のところに英国系の大学がある。その真中のところに大きな道路があります。

道路の左側はフランス人のおばちゃんが座って右を見ています。道路の右側はイギリス人のおばちゃんがフランス人の方を見ています。この二人は笑いませんし、挨拶もしません。互いに言葉を掛けあいません。僕らが通るとこちらのおばちゃんは「ボンジュール」と言ってにこっと笑います。向こう側に行ったら「グッドモーニング」と言います。その間
100メーターもないのですが話をしない。地下鉄では英国側から乗っていて本を読んでいると、突然周りの言葉がわからなくなる。ふと気が付くと英国系の人は全部降りて、フランス系の人が乗ってきてフランス語をしゃべっている。町は真っふたつに別れているのです。ここにあるのは、人間の心の中にある国境なのです。彼らとは仲良くしたくない、できるならば顔を見たくないという人たちがもう200年間もそこに住んでいるのです。

軍隊はつぶすこともできます。原子爆弾も止めるめることができます。でも心はそんなに易く壊れない。だから勉強したり人と付き合ったり、議論したりして、人間や平和とは一体なんだろうと考えなければいけないと思います。

[塾生]「心の国境は何でできるんですか?」

[沖垣]互いの地域に住んでいる人たちの考え方のちがいからでしょう。一緒に住めば問題ないのだけれど、一緒に住みたくないから目に見えない国境ができているわけ。

100%フランス語だけとか英語だけの人とかは少ないのです。80%と20%とかね。3ヶ国語4ヶ国語を使う人が多い。僕が住んでいた頃は、日本人は僕の奥さんだけだったから、フランス語が60%、英語が30%、日本語が10%ぐらいだったかな。2000人も働いている病院で日本人は僕だけだったから、日本語をしゃべる時間はないのです。家に帰れば日本人の奥さんがいて、「あぁ、ジャポネーゼ!」といった感じでした。(笑)

カナダは200年ぐらい前まではエスキモーの人たち以外は誰も住んでいなかった。カナーダというのは「何もないところ」という意味なの。ところが金が取れるということがわかって、フランス人が金を採りに行った。行った人はそこに住むでしょう。だからカナダではフランス人は長男だと思っているわけ。

そこへ、町ができてくると、次にイギリス人が入ってきたんです。ところがイギリス人の方が商売上手だったので、長男が暮らしている土地に後から来た次男がその辺に町をつくったり、お金持ちになって暮らしているのは、長男としては面白くないんです。ケベック州には独立しようという動きがあるんです。ところがその中にあるモントリオールという町は半分はイギリス系の人ですから、わしらも独立したいというわけ。この中でここだけ独立したい。何万人の英語をしゃべる人の中に、何千人かのフランス人がいるわけ、私らもそれでは独立したい。その中に英語をしゃべっている人が何
10軒かあって、その何10軒が独立したいという。もうたまねぎの皮を剥くように独立は起きるんです。国境線がないのも問題ですね。この場合、領土と国境線があった方がいいのかもしれない。

トピックスのお話しをしましょう。ハワイの近くに日付変更線があります。

最初に僕がアメリカにいった時には、航空会社から「あなたは何月何日何時何分に日付変更線を通りました」と書いてあるとても大きな証明書が後から送られてきました。日付変更線は見えないんですよ、だけれど「日付変更線を通りました」という証明書をくれました。そのうちにだんだんお客さんが多くなって、小さなものになり、時間を自分で書き込むものになりました。今はあまりにお客さんが多いのでありません。

何年か前に赤道を通過した時にはこれをくれました。この絵は日本アジア航空のスチュワーデスが描いたものだそうです。船に乗ると今でも赤道祭というお祭りがありまして、踊ったり歌ったりするんですけれども、波が静かで揺れない時には、双眼鏡に赤い線を引いて(笑い)、「見えました!赤道が近づきました!」と言うと、「ほんまやな。赤かった。」というお客さんが何100人に1人はいるそうです。(笑)

私がした北極上空での悪戯です。北極を通ってアラスカのアンカレッジに着いた時のことですが、アンカレッジと言うところは氷以外には本当に何もないところなんです。見えるわけがないんですけれどね、僕が「ホワイトベアが見えるぞ」と言ったんですね。すると乗客のみんなが片方に寄ってきて…。そうするとスチューワデスが「飛行機が傾くからやめてください」と慌てたり。(笑)飛行機に長く乗っているとそういう面白いことがあります。(笑)

それと海外旅行をすると何かコレクションをしたいでしょ。お金にならなくても自分がお土産にしたいもの。僕はレストランのメニューを集めています。アメリカに住んで、だんだん立派なレストランに行くようになると、僕のコレクションもだんだん知られてくるようになって、「あなたがメニューのコレクションをしているのなら私のをあげましょう」という人が出てきました。今、レストランとか飛行機、船のメニューが1000ぐらいあります。一番大きいメニューは巻物になっていて5メーターもあります。ワインのメニューが別々に着いているものもあります。アメリカの高級なレストランですと、日付けやシェフの名前が書いてあるものもあります。



3.私たちの国、島国日本

日本は「小さな島国」といわれています。確かに海に囲まれているから島国ですが、小さいのでしょうか大きいのでしょうか。大きいとか小さいとか言う時には、比較するものがなければいけないですね。

島国は世界には36ぐらいあります。日本以外だったらマダガスカル、フィリピンなどがそうです。でもそのうち30は人口が300万人以下です。本当に小さな国々です。岡山県の人口が200万人ぐらいですから、岡山ぐらいの人口の国ばかりです。6つの国が人口300万以上で、フィリピン、日本がそうですが、フィリピンは島数がすごいです。日本のように島数が少ないのにこんなにたくさん人口がいる国は他にないんです。非常に変わった島国です。ですから小さいとは言えませんね。

日本は単一民族国家、日本人だけが住んでいるといわれていますけれども、アイヌ人もいます。ギリヤーク人という人たちが日本に住んでいるということを知っていますか?北海道の網走にはギリヤーク人が今でも住んでいます。アイヌだけではないんです。ですから日本は決して日本人だけが住んでいる国ではないんです。

また、岡山だけみても一番多い時で、80カ国の人が住んでいました。これはもう信じられない数字です。20年前には、もともと住んでいた中国系、朝鮮系の人がほとんどだったけれど、今では75カ国ぐらいの人が18千人住んでいるんです。ちょっと前の東京の外国人の数と同じです。その意味では岡山も結構な国際都市なのです。それなのに「国際化」とか「国際理解」とかが叫ばれているということが問題で、まだ世界の中で住むことに慣れていないということなのです。だから君たちには外国の人のことを考えたり、心配したりして暮らしたりしましょうと言いたいのです。


A.日本は誰が作ったのか?

地球上で人類ができてきたのは何百万年か前で、アフリカの南東の方で生れたのです。そこから北の方へ上ってきて、一部がヨーロッパの方へ、一部がアジア、はるか太平洋を越えてカナダ、アメリカへもと、拡がってきました。この人類の出発点の血液型はO型です。その後何かの理由でA型ができました。日本はA型が多いですね。A型はどこかで別れて日本を含めてロシアの方へ行って、ベーリング海を越えてカナダを越えてメキシコへ行って、南米まで到達するんです。B型はヨーロッパへ行って、その間にAB型が出てくるのです。遺伝子を調べたらどういう風に人間ができてきたのか、人類が拡がっていった軌跡がわかるのです。


B.先祖とはなにか?

156年前にスイスでアイスマンというミイラが見つかりました。このミイラは比較的新しいもので、その人の遺伝子をとることができ、その遺伝子を調べてみたら直系の子孫が千数百人わかったんです。子孫はスイスだけではなく、イギリスを始めヨーロッパの多くの国にいました。

先祖は当然、生物学的に関係ある人が先祖ですよね。最近ではこのように遺伝子の研究で先祖がわかってきて、どこの人がどこへ来たのかがわかってきました。


C.本当の先祖は誰か

もともと私たちの先祖は同じ人種の同じ家族から増えたんでしょうけれど、今になってみると生活とか、文化、伝統、習慣、食べ物とか、一緒に生活することを作ってくれた先輩、それが先祖です。

僕らにとっては当然アジアの人々が先祖でしょう。日本に人がどこから来たのかについては、いくつかルートがありますね。ひとつは中国を通って、もうひとつは朝鮮半島を通って。だから我々の先祖もひとつところから来たわけではなく、こういう風に混ぜ混ぜの日本人だということです。いつのまにか漢字を使うようになってきたのは主として漢字を使う中国、朝鮮から来た人が多いからですね。だから漢字を使う中国は一番上の兄さんです。韓国は2番目の兄さんです。我々は三男坊です。それから、アジア各国とは深い関係があって、インドはおじさん、東南アジアとかは従姉妹とか、そう思えば戦争もしなくていいような気がしますね。


D.日本の歴史

 まず、弥生時代というのは縄文文化の後ですが、弥生時代にどういう人が何をしたかというようなことはまだほとんどわかっていないのです。

その時代がヨーロッパではローマ時代になります。テーブルの上に前回と今回の講義のために僕が勉強した本の一部が展示してありますけれど、その中に塩野七生さんのローマに関係する本「ローマ人の物語」が
7冊あります。ローマは国のかたちが完璧に出来上がっていた国で、誰が税金をいくら払っていたということまで記録されてわかっていたんです。誰が兵隊を何人持っていて、何年にどこを攻めたかまでわかっていたんです。それと同じ時代が日本では弥生時代なんです。だから国というものを考える時にいつか「ローマ人の物語」を読んでください。どうしてローマという素晴らしい国ができたのか、そして潰れてしまったのかがわかってきます。そういう意味でローマは大切だと思っています。

それから、平安時代には日本に中国や韓国からたくさんの人が来ましたね。この時代にもずいぶん外国人はいたようです。奈良には貴族といわれる人が1200人ぐらいはいたんですが、貴族の内の4分の1は朝鮮や中国からきた人たちでした。ですからもともと日本の国を作った最初の人たち、我々の先祖はアジアの人がいっぱいいたということです。だとすると「私は日本人よ」という人は「私は何%日本人よ」と言わなければ正しくないですね。僕はどこに行っても中国人と間違われますから、50%中国人かもしれない。

大きな戦乱の時代があってやがて、信長、秀吉、家康の時代がきます。その時代の前半はとても外国人を大切にしていました。例えば信長の時代には長崎には4万人の人が住んでいましたが、その内の1万人が外国人だったといわれています。25%が外国人だったんです。そんな都市は今でもありませんよね。国際国家になりかけたのですが家康から三代目、家光の時代になって外国人から物をもらってはいけない、外国の人が入ってはいけないと鎖国をしました。例外で、長崎に出島という窓を作って、この窓までは外国人が入ってよいということになっていました。ほとんどがポルトガル人とオランダ人でしたが、ここで文化の輸入や輸出が行われていたわけです。ですからここは日本であって日本でないような中間地帯になっていました。

明治時代になるまで完全に国を閉ざしていたので、日本は西欧諸国からすごく遅れ、「鎖国は日本を遅らせた」と言われています。しかし、実はそうでもなくて小さな小窓の穴のようなところから入ってきたものが後に影響しているんです。出島というのは小さな窓ですけれど、そこからひっきりなしに文化が入ってきたんですね。それをベネットさんという島根生まれのアメリカ人が「鎖国が日本をだめにしたと言っているが、鎖国をしなかったら日本は完全にヨーロッパに占領されていた」と日本の歴史を書いたものの中に書いています。この人は私の先生ですが、外国に占領されないで、日本を守りながらヨーロッパの文化を入れたのは賢かったと言ってくれています。

 その後、明治維新がありましたね。明治になって国を開き、外国を知ることに力が入り、外国を勉強しなければと、役人はヨーロッパで勉強してきて、それを真似て日本を作ったんですよ。それを入欧と言います。そしてヨーロッパのことばっかり勉強して、アジアを忘れてしまった。「脱亜入欧」です。それもうまくいかなくなって戦争をおこしたのです。

僕が子どもの頃に戦争に負けて後、民主主義導入ということで、「脱亜入米」ばっかりになってしまったんです。ヨーロッパともあまり付き合わない、アジアと付き合わないのは今日まで同じです。ごく近年は変わってきましたね。

今、皆さんに考えていただきたいことは、皆さんが生きていく21世紀には必ずアジアが台頭してくるでしょう。そして、アジアが強くなれば日本とは喧嘩の元になります。インドは今、コンピューターでは世界一の国です。アメリカより強くなると思われているのです。中国の産業が日本を圧迫します。そうなった時にどうするか、大変大きな問題だと思います。

こうしたアジアの国々の人たちとどう付き合っていくのかが皆さんの課題だと思います。

今日も、よく勉強してくれてありがとう。