仏教と現代


交わりをしたならば愛情が生ずる。
愛情にしたがってこの苦しみが起こる。
愛情から禍(わざわ)いの生ずることを
観察して
犀(さい)の角のようにただ独り歩め。
(釈尊『スッタニパータ』)

 イラク戦争が泥沼化しています。日本から自衛隊が派遣された後も、バクダッドなどでのテロは続発しています。

 そんな中、アメリカ合州国では流行語に「embed」(インベッド)という言葉が選ばれました。

 「embed」とはもともと「埋め込む」という動詞です。それが、このイラク戦争の過程で、メディアの「従軍取材」を意味する名詞になってきたのです。まるで軍隊に埋め込まれたように、一体となって取材する、というニュアンスでしょう。

 私はここでイラク戦争の是非論を論じるつもりはありません。賛否いろいろあって当然でしょう。でも、イラク戦争の取材の仕方については、特にアメリカ合州国のメディアは、はっきり言って、ひどい。取材陣は軍隊と一緒に生活をともにし、仲良くなって、ついには一体感を感じるようになる。客観報道など全く期待できません。こうして視聴者は毎日、軍隊の広報機関と化したメディアの情報を、鵜呑みにするしかありませんでした。

 それが今、変わりつつあります。独立系メディアの登場です。

 同志社大学の浅野健一教授がニューヨークで訪問した『デモクラシー・ナウ!』は、その一つ。アンカーのエイミー・グッドマン氏は浅野氏に、(embed取材は)「ペンタゴンにとっては大成功だった。従軍取材では、ジャーナリストの生死は軍次第だ。ストックホルム症候群といわれるように、軍隊と行動を共にすることで、一体感を持ってしまう。軍に“embed”するのは公正中立に反している。イラク市民の地域社会に“embed”したほうがいい」と話しています(浅野健一ゼミ)。愛国的一体感がアメリカ合州国を覆う中、独立を保ち“embed”を拒むには、様々な嫌がらせに耐えなければならなかったといいます。

 思うに、「付和雷同」「寄らば大樹の陰」というのは、これほど気楽なことはありません。自分を戒めるものがなければ、何となく「埋め込まれて」いくものです。

 釈尊は、そんな人間の弱さを強く戒めています。

 『スッタニパータ』という原始経典では、釈尊の教えとして、有名な「犀の角」の章が登場します。

 この章は「あらゆる生き物に対して暴力を加えることなく…」というフレーズから始まり、なんと、「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉が75回も繰り返されます。インドの人々もよっぽど群れたがるのかな、などと考えてしまいます。

 面白いのは、上に抜粋した「交わりから愛が生じ、愛から苦しみが生じる」という言い回しです。「交わりから愛が生じた、それでいいじゃないか」とならないんですね。釈尊は苦しみの本質を見事に見抜きました。愛が邪魔をして、正しいことができなくなる、あるいは本当にやりたいことができなくなる、それが現実ですね。

 じゃぁ愛を否定しろ、と言っているのではありません。答えは簡単。「“embed”するな」です。

 集団に埋め込まれて苦しみの生じる構造を見失ってはいけない、苦しみを見極めるには愛を客観的に観察でなきゃいけない、そのためには犀の角のように「独立系」で行こう! それが釈尊の教えです。

 ちなみに、アメリカ合州国の独立系メディアを取材した浅野ゼミの学生の一人は、こう言っています。「それでも米国のメディアの数は日本とは比べものにならないほど多い。すなわち市民の“声”の発信が日本よりもはるかに容易であり、良心的なジャーナリストが活躍の場を与えられる」。

 どうやら日本のほうが、ひどいらしいです…。

2004年2月21日 坂田 光永


《バックナンバー》
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○ 2003年12月21日「あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように…」
○ 2003年11月21日「…蒼生の福を増せ」
○ 2003年10月21日「ありがたや … (同行二人御詠歌)」
○ 2003年9月21日「観自在菩薩 深い般若波羅蜜多を行ずるの時 … 」
○ 2003年8月21日「それ仏法 遙かにあらず … 」



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