縁起を見る者は、法を見る。
法を見る者は、縁起を見る。
(釈尊)

仏教と現代

 地下鉄サリン事件から十回忌。松本被告に死刑判決。オウム真理教のニュースを聞くたびに、当時オウムに浴びせられていた批判を思い出します。

 「彼らは仏教だというが、キリスト教も混ざっていてめちゃくちゃだ」
 「オウムの言うことは非科学的だ」
 「信者たちは論理的思考ができなかったのではないか」

 これを当時15歳の私はどう受け止めたのか。「それって、真言宗も変わらんじゃんか!」というのが正直な感想でした。

 というのも真言宗の教え(真言密教)は、実は仏教とバラモン教の融合で成り立っています。日本に来てからは神道とも混ざった。これじゃ真言密教も「めちゃくちゃ」と言われかねません。

 それに真言宗は祈祷もすればヨガ行もします。これを一般の人が見れば、「なんて非科学的な!」「論理的に考えろ!」と思うでしょう。

 まぁオウム真理教の教理自体がチベット密教からの輸入品で、チベット密教と真言密教とは親戚です。使っている用語も「ヴァジラヤーナ」(金剛乗)とか、オウムと真言宗はかぶるんですよね。そのあたりは、甘んじて認めなければなりません。

 宗教家からは「オウムと一緒にすんな!」と怒られそうだけど、そもそも宗教そのものが、現代社会から見れば非科学的で非論理的な感じがしますね。宗教と科学は対立するもの、そういう見方が一般的でしょう。

 さて宗教学者の中沢新一氏が、最近出版した『仏教が好き!』(河合隼雄との共著・朝日新聞社)の中でこんなことを言っています。(そういえば彼はオウム真理教を擁護したとして言論界を一時、追放気味でしたね)

 彼は大学時代、世の中の不思議なことを科学的に研究しようと思って理系に進んだ。しかし理系の世界では、「不思議=非科学的」として掛け合ってくれない。そこで宗教学を求めて文系に転進するけれど、今度は周囲が実存主義的な人間ばかりで、彼の科学的態度を受け入れてくれない。確かにほとんどの人が、「いわゆる科学主義にぽーんとなってしまうか、そうでなかったらさっきの実存主義のようなものになってしまうか」(中沢氏)ですよね。コレ、私はものすっごく理解できます。

 私は大学時代、周囲の友人を「おまえは科学信者か」とののしり、顰蹙をかっていました。しかし高野山に行くと、今度は自分が「おまえは科学信者か」と言われる立場になってしまいます。

 今から思えば、私は「ホントの科学って何だ?」って考えている人間だったんだと思います。世の中の不思議な出来事を、確かめもせず「非科学的だっ!」と切り捨てるような態度は、それこそ非科学的じゃないか、と考えているんです。例えばオウムを「非科学的だっ!」と批判した人は、松本被告の娘が入学拒否されたことを「非科学的だ!」と言っていますか? 言っていないなら、それこそ非科学的じゃないかな。世の中がオウム関係者を「ポア」しちゃってる(笑)。オウム真理教と同類、とまでは言いませんが…。

 で、さきほど「一般的な見方では宗教と科学は対立するものだ」と書きました。ですが実際はどうでしょうか。

 仏教の基本は何ですか? と問われれば、仏教僧は「縁起です」と答えなければなりません。

 「縁起がよい」「縁起を担ぐ」の縁起とは違います。元来、釈尊が使った「縁起」(プラティートヤサムットパーダ)という言葉の意味は、「世の中のあらゆる物事は、何かが原因となり、何かが縁となって起こっている。その結果がまた何かの原因になり縁になり、相互につながり合っている。世の中のあらゆる物事は、つながり合っている」というものです。

 例えば、今あなたが何かに苦しんでいるとします。その苦しみは、必ず何かの原因や縁があるはず。だから、その苦しみを忌み嫌って遠ざけようとするのではなくて、その苦しみをありのままに正しく見ることによって、苦しみの起こった原因や縁を見極め、乗り越えていきませんか。そう釈尊は説いています。

 ね、ね、とっても科学的だとは思いませんか? というか、当時バラモン教の不思議パワー全開の世にあって、これこそ科学の誕生の瞬間!と言えるかもしれません。

 世の中のあらゆる物事は、相互に関係し合って、つながり合っている。まるで絡み合った糸ですが、もしその絡み合いを見ることができれば、すなわち「法(真理)を見た」ことになるわけです。絡み合った糸を解きほぐそうとする営みが、仏教の修行なのです。それからすれば、本来、仏教はとっても科学的なんですよ。

 その科学的な姿勢は、釈尊が亡くなってあっけなく衰退するんですけれど、空海(弘法大師)の登場によって見事に復活します。空海は、例のバラモン教的「世の中の不思議」を、科学的に論理的に、体系づけて説明してしまいます。眼に見えなくてもつながっている縁起の網の目を、彼は「重々帝網(たいもう)なるを即身と名づく」と述べています。真言密教は一見、不思議パワー全開ですが、その内実はとても緻密な空海の論理によって裏付けられているんですよ。

 しかしその不思議パワーの「絡み合った糸」を解きほぐす努力をひとたび怠れば、見えていたはずの法(真理)は嘘の法になり、間違った方向に走り始めるかもしれません。密教は不思議パワー全開なぶん、リスクが大きいでしょう。

 そういう意味で言えば、オウム真理教が間違ったのは、やはり「非科学的な態度」が原因だったのでしょう。そして、私たち真言密教がいつ、オウム真理教に化けるかもしれないリスクを、私たち真言行者は感じなければならないと思います。

2004年3月23日 坂田光永


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