法話集

一 期 一 会

高野山本山布教師 坂田 義章

  (一)

 秋冷の命分泌(ぶんぴ)して心模様(うらもよう)訴へてゐる黄の石蕗(つわぶき)

 自分自身の顔を見るためには何かに自分の顔を映してみるほかはありません。澄み切った静かな水面は、影を映します。おそらく古代人は水鏡を見て自分の顔を見ることを知ったのではないでしょうか。

 やがて人間は銅鏡のようなものを作る智恵と技術を覚えたのでしょう。

 昔、釈尊の弟子の一人に愚かな者がいました。初めて鏡というものを見まして、自分の顔がそこに映っているのに驚きました。2004年12月31日朝、光明院にてところが何かのはずみでその鏡がこわれました。たちまち映っていた自分の顔がなくなってしまったのです。驚いたのはその弟子であります。自分の顔がなくなってしまったと思いました。

 さて、昔話であってもまさかこうした話が事実あったと思う人はないでしょう。ただ、どうかするとこれに似たような馬鹿馬鹿しいことに気づかないことだってあり得るものです。自分というものを本当に知っていませんと、自分は自分であるつもりでいましても、自分を見失うことが時々おこって参ります。


  (二)

 秋も十一月、何処へ行っても、蕭條(しょうじょう)の秋景色に、思い浮かぶこと、みな一抹の哀愁にいろどられる季節です。

 一木一草の紅葉も美しいのですが、一山一渓を極彩色で埋めつくすスケールの大きいのが紅葉風景の素晴らしさであります。山も渓谷も見わたす限り満目紅葉、黄葉に映えているのを見ていますと、唐の詩人、杜牧(とぼく)の「山行(さんこう)」の一句、「霜葉(そうよう)は二月の花よりも紅なり」が思い出されてきます。

 謡曲に「紅葉狩」があります。主人公平維茂(これもち)が信州の戸隠山で「時雨を急ぐ紅葉狩り」の道すがら、やんごとなき上臈(じょうろう)(貴婦人)が林間に幕をうち回し、屏風(びょうぶ)を立て酒宴を催しているのに出会い、美女に酒を飲まされ、あわやお化けの鬼女に殺されようとするのをやっとのことで助かるのです。

 深山幽谷の紅葉ぶりは鬼気迫るほどの物凄いもので、維茂が化性(けしょう)のものにたぶらかされるのも無理はないのです。それほど奥山の紅葉は魔の世界なのです。


(三)

 落葉樹は常緑樹とちがって晩秋のころ、葉をふるい落して裸木となり、冬眠に入ります。その一期一会(さよなら)の挨拶のドラマとして紅葉という色彩の大饗宴を開いて最期のひとときを飾っているのでしょう。ひと冬を葉のない裸でふるえて暮らす落葉樹を神さま、仏さまは哀れだと思われ、ほんのひととき豪華なゴブラン織り(パリ市ゴブラン工場で作られる壁掛用の厚い織物)の衣裳をまとわせておられるのかもしれません。いのちの輝きであります。


  願以此功徳 普及於一切

合掌


 この文章は、光明院だより『遍照』(2005年1月1日発行)に掲載されました。

《過去掲載分》
○ 2004年9月21日「仏法遙かにあらず」
○ 2004年3月21日「リンゴの気持ち」
○ 2004年2月21日「ふうせんかづら」
○ 2004年1月21日「心の師」
○ 2003年10月21日「百日紅の花」
○ 2003年8月21日「露団団」




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