仏教と現代
掌に刻まれた歪な曲線 何らかの意味を持って生まれてきた証 僕らなら 求め合う寂しい動物 肩を寄せるようにして 愛を歌っている 抱いたはずが突き飛ばして 包むはずが切り刻んで 撫でるつもりが引っ掻いて また愛 求める 解り合えたふりしたって 僕らは違った個体で だけどひとつになりたくて 暗闇で もがいて もがいている (中略) ひとつにならなくていいよ 価値観も 理念も 宗教も ひとつにならなくていいよ 認め合うことができるから それで素晴らしい (ミスター・チルドレン『掌』) 作詞:桜井和寿 JASRAC管理番号112-0134-7 |
たまには、こういうのもありかな、ということで(笑)。どうぞご勘弁ください。
前回までは釈尊や弘法大師の言葉から、現代社会へと語り起こしてきました。今回は、現代社会にある「仏教的!」な言葉を、原仏教へと語り起こしていこうと思います。
いやいやちょっと待て、現代の坊さんの言葉なら分かるけど、よりによってなぜミュージシャンの歌詞なんだ? と怒る人もおられるでしょうね。
お答えします。坊さんは普段、偉そうにしていますが、世の中、坊さんよりもずっと仏教的な方がたくさんおられる、と私は考えています。
今時の、儀式化し、価値が固定化した「宗派としての仏教」においては、確かに坊さんは権威があります。それなりの修行をしているし、資格も持っている。お経や儀式を通じてブッダになろうとするのが、この坊さんという存在です。
でも「宗派以前の仏教」(原仏教)の眼で見れば、決して坊さんが特別ではありません。要するに、お経や儀式などの助けを借りずとも、一般の世の中にもまれて鍛えられた人の中には、知ってか知らずか、よりブッダに近づいている人がいるはずです。
例えば上に挙げたミスター・チルドレン(ミスチル)というバンドの曲は、とっても仏教的です。この『掌』という曲を初めテレビで聞いたとき、私はオッたまげましたよ。「仏教って何?」と聞かれたら、四苦八苦がどうのこうの、色即是空がどうのこうの、と説くより、この曲を一発かましたほうが、ずっと分かりやすいと思ったのです。
こんなことを言うと、逆にミスチルファンにも怒られるかもしれません。「桜井は仏教を意図して歌っているんじゃない」「歌を布教に利用するな」と。もちろんそうです。だからアーティスト本人の意向はとりあえず無視。ごめんなさい。
ただ私は、この歌詞の境地に至れるのであれば、別に仏教徒じゃなくてもいいよなぁ、などと考えてしまいます。四苦八苦だとか色即是空だとか言いますが、仏教が苦悩や真理の内容を決めるのではなくて、世の苦悩や真理に対して仏教的な名づけをしただけなのです。そういう意味では「世の苦悩や真理が先、仏教が後」です。ミスチルの曲も仏教経典も、世の苦悩や真理を歌った同業他社(?)みたいなもんです。
ミスチルは歌います。
欲しいものほど、手に入らなかったとき苦しい。愛するがゆえに苦しい。そんなとき、「これで最後にしよう」と堅く決意するんだけど、また欲しくなるし、愛したくなるんですよね。「あーでもない」「こーでもない」って私たちは迷い続ける、どうしようもない動物です。そんなアンビバレント(どっちも欲しくて決めらんないよ〜)な感じを、ありのまま受け止めるところから全ては出発するのでしょうね。なかなか難しいことです。
同じくミスチルの『くるみ』もそうです。
出会いの数だけ別れは増える
それでも希望に胸は震える
十字路に出くわすたび
迷いもするだろうけど
(ミスター・チルドレン『くるみ』)
十字路に出くわした人に対して、仏教は「右に行くべきだ」「左はやめとけ」などと安直に答えを言いません。出し渋りをしているのかというと、そうでもありません。迷えばいいのですよ、迷っているあなたの心に正直になりなさい、というのが仏教です。進むべき道を決めるのは自分です。でも、ひとたび道を進み始めれば、それを陰ながら支えましょう、というのが仏教です。
おー、なんて仏教的!
2004年4月21日 坂田光永
《バックナンバー》
○ 2004年3月23日「縁起を見る者は、法を見る。法を見る者は、縁起を見る」
○ 2004年2月21日「…犀(さい)の角のようにただ独り歩め」
○ 2004年1月21日「現代の世に「釈風」を吹かせたい ―心の相談員養成講習会を受講して―」
○ 2003年12月21日「あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように…」
○ 2003年11月21日「…蒼生の福を増せ」
○ 2003年10月21日「ありがたや … (同行二人御詠歌)」
○ 2003年9月21日「観自在菩薩 深い般若波羅蜜多を行ずるの時 … 」
○ 2003年8月21日「それ仏法 遙かにあらず … 」