法話集

高野山本山布教師 坂田 義章

  (一)

 冷やかななまめき秘めて懶(
ものう)げに人待ち顔の藍(あい)の紫陽花

 梅雨に入ってから、葉の上に毎朝、露をむすんでいます。この露が光ります。葉に触れている部分の底部から白く光っています。真上から見下ろしますと白光は消えて見えませんが、離れてよく見ますと美と力との豊満が示されています。これが露の詩(
ポエム)でしょう。

 言うまでもなく露はいろいろなものの上にやどります。石垣の上に、屋根の上に、土の上に板べいの上に。けれども石や土や木の上は、まことに流れやすく、消えやすいのです。光明院檀信徒・藤井和子さんによる、くじゅう山での写真の一つやはり人間が、その性格の適する所に生活をしようとするのにも似ています。露もその最も落ち着きやすい所に長く落ち着こうとします。露の、もっとも美しくおちついて宿っているところ葉の上です。木の葉の上、草の葉の上…。

 露が、農家の竹やぶや、生垣や、又は少し荒れた軒から椿の木の枝等にかけわたしている蜘蛛の巣の上で光っているのですが、風が吹いて来たりしますと、まるで魔術のようにどこか散り失せてしまっています。はらはらと草の上に落ちても、落ちました時にはもうその形はないのですから。

 私達は露のもろくも散り失せることよりも露の白、或は黄金(
こがね)色に輝きをもちつつ、その形を与えられ保(たも)たれている間の「時」を充実させている相(すがた)により多くの感動をうけます。

 生きよ、清く生きよ、美しく生きよ、生きてかがやけよ、これが露の詩魂ではないでしょうか。


  (二)

 「一つ積んでは父のため、二重積んでは母のため、三重積んでは古里の…」と哀愁的な賽の河原の地蔵和讃(空也上人作)を唱えていますと、父に叱られた日のこと、母の胸にすがりついた日の少年時代が走馬灯のようによみがえって来ます。

 さて、このお地蔵さんには特定の浄土がありません。六道能化(
のうけ)の地蔵尊と言われるように、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六道すべての世界で様々な姿に身をかえて、苦悩にあえぐ我々に代わってその苦しみを取り除いてくださるのです。この六道と「代受苦」の慈悲のために多くの人々の信仰を得て来たのであります。

 地蔵信仰はインドに生まれ、中国に伝えられ、日本で盛んになったのであります。その代表的なものが六地蔵信仰です。文献上で平安時代の「今昔物語」に登場しております。

 周防国(
すおうのくに)(山口県)の神官で、常に地蔵菩薩の称名口唱(しょうみょうこうしょう)を日課としていた惟高(これたか)という人が、長徳四年の四月の頃、身に病を受けて、六日ばかりして死んでしまったのです。彼は広い野原にさまよい出て、道に迷って東西を失い、涙を流して泣いておりますと、六人の比丘(びく)が現れました。一人は手に香炉を、一人は掌()を合わせ、一人は宝珠(ほうしゅ)を、一人は錫杖(しゃくじょう)を、一人は花筥(はなかご)を、一人は念珠を持っていましたが、香炉をもった比丘が「われ等は六道の衆生のために六種の形をして身を現している。汝は神官の末葉であるが、年ごろわが誓いを信じて殊勝(しゅしょう)である。本国に帰してやるから、六躯(ろっく)の形を顕(あらわ)して造って、恭敬(くぎょう)すべし、わが住居は南方なり」と言うや否や、夢の覚めるように惟高は蘇生したのですが、この間三日を経ていました。

 その後、彼は三間四面の草堂を造り、六地蔵の等身の綵色(
さいしき)の像を造って堂に安置し、法会を設けて開眼供養をしたのであります。

 この六地蔵の形は、かの冥土で見た通りの姿を模写しておりまして、遠近により道俗男女集まり来たってこの供養に結縁しました。その後、彼はいよいよこの地蔵菩薩を礼拝恭敬(
らいはいくぎょう)したということであります。(「今昔物語」巻十七)

 お地蔵さまは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道のどこにもおられる。いつでも、どこでも、だれにでも苦しみを見守り、救って下さる、というのが、この六地蔵信仰の根拠であり、それはまた同時に、六対のお姿をとろうと、とるまいと、お地蔵様の本来の願いなのであります。

  オン カカカ ビサンマエイ ソワカ

合 掌 


 この文章は、転法輪寺発行『転法輪』に掲載されています。

《過去掲載分》
○ 2005年1月1日「一期一会」
○ 2004年9月21日「仏法遙かにあらず」
○ 2004年3月21日「リンゴの気持ち」
○ 2004年2月21日「ふうせんかづら」
○ 2004年1月21日「心の師」
○ 2003年10月21日「百日紅の花」
○ 2003年8月21日「露団団」




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