法話集

高野山本山布教師 坂田 義章

 秋風蕭蕭(しょうしょう


 (一)

 
地を這ってくる風のありさわさわと聞こえてくるのはエノコロ草の声

 もう陽のない空ではありますが、光はしたたるように匂っています。少し黄(
)いろく、そして白く広いその夕空の反映が、庭土(にわつち)を明るく染めています。静かに暮れて行く秋の夕べです。芙蓉の花がしずかにねむっています。その紅の花片は女性の唇のように巻かれてしまっております。そのため心も安らぎます。今はすべてのものの「秋夕夢」です。


 (二)

 蔦(
つた)の葉が汚くなりました。色あせてきて、半分黄()いろくなってしまいました。伸びようとする蔓(つる)にも、もうさしたる力がありません。飽()くこともなく伸びに伸びたこの蔓でした。すがりつけるかぎりのものには、すがりついてのぼっていました。行けるところまでは行こうと努力したこの蔓ではありましたが、上高地の田代池。藤井和子さん撮影今はもう内部から空虚がやって来ました。「見果てぬ夢」のなくなってしまいました人間の心のように、自然にしぼんでいく姿を見せております。仕方がありません。いずれにしましても枯れてしまうのです。これを完成と見なしますか、それとも敗北と見なしますか。


 (三)

 九月二十日は彼岸の入りです。彼岸は梵語(
ぼんご)の波羅蜜多の訳語で、かなたにある理想の世界、あるいは悟りの境地に行きつくのが波羅蜜多です。波羅蜜と言うのは行(ぎょう)であります。波羅蜜の行であります。波羅蜜の行には六つありそれを六波羅蜜と言い、その完成された世界が波羅蜜多の世界です。また、理想の世界を彼岸とも言い、私たちのいる現実の世界を此岸(しがん)とも言います。

 さて、波羅蜜の行(菩薩行)の母体は「布施行」であります。布施とは与えること、施(
ほどこ)すことです。道元禅師は「布施というのは不貪(ふどん)なり。不貪というのは、むさぼらざるなり。むさぼらざるというのは、世の中に言うへつらわざるなり。」(正法眼蔵=しょうほうげんぞう)と示しています。即ち心にもないおべっかをつかったりしてはいけない。よく思われたいという、むさぼりの心がまる見えだというのです。ですから与える時の心と、与えるものが問題なのです。「鮎は瀬に住み、鳥は木に止まり、人は情けの下に住む(「山家鳥虫歌」)という言葉があります。人は自分にさりげなく思いやりをかけてくれる人に、尽くさずにはおれなくなります。「布施」には情けを施すことが大事なのであります。

 布施におきましては「三輪清浄の布施」と言いまして、三つのもの――施者の心・受者の心・施物(
せぶつ)――が清浄でなければならないとされています。俺がおまえに恵んでやるんだぞ、といった気持ちが施しを受けて義理を感じたり、卑屈になってはいけません。それに施物も清浄でなければなりませんし、自分に不要になった物を施しても、それは真の布施ではありません。それでも布施は利他行でしょうか…

 
曼珠沙華木もれ日浴びてきりきりと火花吐きをり真紅の痙攣けいれん

南無大師遍照金剛  合 掌 


 この文章は、転法輪寺発行『転法輪』に掲載されました。

《過去掲載分》
○ 2005年7月21日「ハスの花」
○ 2005年6月21日「賽の河原の地蔵和讃」
○ 2005年1月1日「一期一会」
○ 2004年9月21日「仏法遙かにあらず」
○ 2004年3月21日「リンゴの気持ち」
○ 2004年2月21日「ふうせんかづら」
○ 2004年1月21日「心の師」
○ 2003年10月21日「百日紅の花」
○ 2003年8月21日「露団団」




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