法話集

高野山本山布教師 坂田 義章

藤井和子さん撮影による高知県「べふ峡」 別 事 無 し


  (一)

 黄()の時間耐えて待ちゐるつはぶきに秋の陽ざしの飲食(おんじき)の息

 秋も末、十一月のことです。「まあ… 突っついて食べているわ」

 こういう声が路地の向うの方から聞こえて来ます。出てみますと、柿の木の赤い実を、渡り鳥が飛んで来て、とまっていかにもおいしそうに啄(
ついば)んでいるのでした。何とうらやましい空中の昼餐(ちゅうさん)よ。私は、その時、心から鳥のような生活がうらやましく思われました。身も心もかるげに、その梢の、小枝のささげている赤い実に、くちばしをいくたびもいくたびもさし入れては、次には首を上に向けては、のみこんでいるのです。絵にしたいようなその風情でした。

 やがて、ぱっと秋の陽ざしの中を、どこへともなくその鳥はとび去りました。私は、ほほえまずにはいられませんでした。


  (二)

 秋のたびのかずかずの思い出――秋の山、秋の河、また、秋の湖、秋の海、いろいろな時に見たここかしこの秋の陽ざしは、今、秋の心の中に寂しく照っております。

 さて、中国、「宋」の詩人蘇東波(
そとうば)の詩に、

 
廬山烟雨浙江潮(ろざんのえんうせっこうのちょう)
 
未到千般愁不消(いまだいたらざればせんぱんうれいしょうせず)
 
到得帰来無別事(いたりえかえりきたってべつじなし)
 
廬山烟雨浙江潮(ろざんのえんうせっこうのちょう)

 私はこの七言絶句がすきです。久恋(
きゅうれん)の地、思慕(しぼ)の地へ、ようようの事で探勝(たんしょう)の旅を果たし得ても、家に帰り着いた時には、やはり、「到得(いたりえ)、帰り来たって別事無し」の感を覚えるでしょう。

 どんなに美しい風景でも、親しく眺め得た後には、やはり何でもないものになってしまいます。そして、それは、単に山水に限らず、人生の百般についても、言い得られると思います。すべては見ぬうちが花です。あこがれ望んでいるうちが、幸福なのでしょう。

「未だ到らざれば千般愁い消せず。到り得、帰り来たって別事無し」

 私達はいろいろな欲望を持っております。その欲望を果たすまでは、絶えず内から駆り立てられるようで一刻も心が安まりません。千般愁い消せずです。しかし、一旦その欲望が満たされると何だか、がっかりちたような気ぬけしたような心持で、あんなに熱望していたものも、結局何でもなかった事を感ぜずにはいられません。これは人生のあらゆる事において、私達の経験するところですが、私達がまた人生の終局に立って、その一生をふりかえって見た時にも、多分、おなじく別事無しの感があるでしょう。これが人生なのでしょう。人間の一生は、これだけのものに過ぎないのかも知れません。しかし、その別事無きところは、みずからその境地に行かなければ分からないのです。

 私は死の一瞬を鮮烈に生きて来ました。いや、生きてきたのではなく、生かされて来たのであります。生かされている不思議、生かされている重さを深く味あいながら六十年がたちました。日が暮れてから道は始まるとか。別事無き菩提の境地はまだまだです。

夕暮れはまだまだ遠い老残(ろうざん)の面(おも)をうちくるひぐらしの声

南無大師遍照金剛  合 掌 


 この文章は、光明院発行『遍照』(2006年1月)に掲載されました。

《過去掲載分》
○ 2005年8月21日「秋風蕭蕭(しょうしょう)」
○ 2005年7月21日「ハスの花」
○ 2005年6月21日「賽の河原の地蔵和讃」
○ 2005年1月1日「一期一会」
○ 2004年9月21日「仏法遙かにあらず」
○ 2004年3月21日「リンゴの気持ち」
○ 2004年2月21日「ふうせんかづら」
○ 2004年1月21日「心の師」
○ 2003年10月21日「百日紅の花」
○ 2003年8月21日「露団団」




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