法話集
高野山本山布教師 坂田 義章
負 い 目
(一)
あの二人はどうしているだろうか、民家まで行きついたのだろうか。負傷した私を励まして肩をかしてくれていた二人は? 私は昼間樹海の中のさまよいを思い出し始めていた。
もう一昼夜が過ぎている。時の刻む音に調子を合わせながらすべての人生が過ぎ去って行くのだ。私は今にしてわかった。二十四年という僅かな時の間に生きる人間であることが。あの世、冥界では死亡閻魔帳に七時十五分死亡、沖縄慶良間近海と登録されるはずであった。志望者多数のために、エスカレーターに乗せて貰えなかったにすぎない。受取証済みなのだ。朝刊の新聞には“南西諸島、特攻機の戦果多大、吾が方の損害軽微”、戦死者としての私の名前が隅に小さく載っているだろう。私の時計が七時十五分かっきり、完全に停止してしまったので人生の調子が狂い始めているようであった。
それでよいのだ。本当のことを知らずにすめばよい。特攻機の一員として南方海上に於て戦死したものと思わせておきたい。半眼失明の状態で、苦しみながら戦死したことを知ったらどうだろう……。
ああ苦しめないでくれ。傷の痛み以上に苦しい。私は右眼をあける。眼に入ってくるのはうっそうとした林で、昼の木もれ陽を受けているのが昨日と違って見えるだけであった。やり場のない孤独感と咽喉の渇きが襲ってくる。
この私がどうしたと言うのだ。エンジンが不調でさえなかったら……、雲の流れるあの崖で笑っていることだろう。なにも聞こえず、傷の痛みもなく、ひとりぼっちのやるせなさもなく、咽喉の渇きも知らずに済むのだ。何の業の報いなのだろうか。運命の手のゆるみがうらめしくさえあった。
(二)
生きているという事に対して感謝も感激もなかった。まだまだという気分と駄目かも知れないという気持ちが相半ばし始めて来た。顔の辺りがむくんでくる。どうも重ぐるしい。半分閉じたままの眼にうつる手足にも紫斑がぽつぽつ出ている。渇きと餓えのために、健康的な人間の感覚は完全に消えてしまった。じっとして死を待つ事が恐ろしかった。生きたいという本能だけで這うように歩いた。樹木の端や笹が頬につきささってももう何も感じなかった。ふと私の視野に樹木を透かして遥か遠くに砂浜が入ってきた。蜃気楼?……、確かに見える。潅木の茂った急勾配を前にしてさえも、私は躊躇しなかった。
最後の気力をふりしぼって気を伝って下り始めた。岩や樹は容赦なく私にパンチを与える。眼前に青い海が大きな口をあけているのを見た時唯、茫然とするのみであった。
白い砂の上には灼熱の太陽が照りつけていた。木片を杖に、さまよえるオランダ人のように砂浜を北に向かって歩いた。しかし、数歩も歩かぬうちに意識を失って倒れた。
数十人のものが喚声をあげて走って来ておった。その安堵のためであったかも知れない。
(三)
死ぬるはずの私が今日まで生きている。私は当時を回想しながら、自分を守ってくれた見えない力に心から感謝し、心から合唱せざるにはおられない。と同時に、その合掌の心の中には、私が生を得たかわりに、その帳尻を合わすために、同期生の一人を死に追いやったかも知れないという消えることのない汚名がまつわりついてくるのである。なにはともあれ、若くして南冥に散華していった同期生への、私の負い目の感情、それは私に死が訪れる日まで払拭できないのかもしれないと思っている。
"帽振れ"に送られし身の来し方がおいでおいでするドアの向こうで
出撃は六十一年前死すべかりし身は生きて今鳳仙花の種まく
南無大師遍照金剛 合 掌
この文章は、奈良県五條市の転法輪寺発行『転法輪』(2006年3月)に掲載されました。
《過去掲載分》
○ 2006年1月1日「別事無し」
○ 2005年8月21日「秋風蕭蕭(しょうしょう)」
○ 2005年7月21日「ハスの花」
○ 2005年6月21日「賽の河原の地蔵和讃」
○ 2005年1月1日「一期一会」
○ 2004年9月21日「仏法遙かにあらず」
○ 2004年3月21日「リンゴの気持ち」
○ 2004年2月21日「ふうせんかづら」
○ 2004年1月21日「心の師」
○ 2003年10月21日「百日紅の花」
○ 2003年8月21日「露団団」