仏教と現代

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。
――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
(釈尊『ダンマパダ』)

光明院檀信徒・藤井和子さん撮影による、鉢ヶ峰からの瀬戸内の風景 中村元先生著の『ブッダの真理のことば・感興のことば』(岩波文庫)によると、「ダンマ」は法とか真理とかいう意味で、「パダ」は「ことば」を表す語だそうです。日本でも読まれる「法句経」に相当します。

 この「ダンマパダ」は現在、スリランカやタイ、ビルマなどの南伝仏教の地域で広く読まれています。日本の仏教経典のように「何が言われているのか分からない」というものではなく、人間の真理を端的に述べたものなので、そんな感じで訳したのだ、と中村先生。確かに上記の中村先生の訳も、耳で聞いて理解できる平易なことばです。

 平易だからといっても、内容が浅いかというと決してそうではありません。

 私たちは日常生活の中で、物は物として存在していると思ってます。例えば「リンゴ」を見たり触ったり食べたりするとき、何の抵抗もなく「リンゴはここに存在する」と知覚しています。

 しかし、その知覚のプロセスは実に複雑です。目・耳・鼻・口・皮膚が刺激を受け、脳にその情報が伝わります。どうやらそれは、赤くて丸い物が見えたり、ゴロンと転がる音が聞こえたり、甘酸っぱいにおいや味がしたり、つるつるした表面の手触りが感じられたりしているらしい。過去に貯蔵したデータの中で、これに最適のものは… 「リンゴ」! というわけで、「リンゴはここに存在する」と知覚されるわけです。

 だからどうした、という感じですが、何が言いたいのかというと、「すべてのものごとは、存在するかどうかは不明で、脳によって知覚されているに過ぎない」ということなんです。

 では、もし何らかの方法で脳に直接、刺激を与えれば、ここにリンゴは無くても「リンゴが存在する」と思い込んじゃうのか? まぁ、そういうことになるでしょうね。

 まるでカントみたいな考え方ですが、この考え方、すでに4〜5世紀ごろのインドで打ち出した人がいるのです。仏教の「唯識派」と呼ばれる無着(アサンガ)、世親(ヴァスバンドゥ)の兄弟です。20世紀の大脳生理学の先取りともいえる、恐ろしく現代的な思索です。そしてその源流が、上記の「ダンマパダ」にも流れているのです。

 そんな高度な内容が、平易なことばでつづられているのが「ダンマパダ」です。私たちも、日ごろ読み聞かすようにしておいてもいいかもしれません。普段の漢文のお経とはまた違う、どこか仏教の原点に立ち返るような新鮮さを覚えるでしょう。

 2004年末のインド洋大地震とその津波は、上述の南伝仏教国にも未曾有の被害をもたらしました。「ダンマパダ」を心の支えとしている被災者の方も多いでしょう。今年は戦後60年、そして阪神淡路大震災から10年目です。限りなく無力ですが、気持ちだけでも向いておきたいと思っています。

2005年1月21日 坂田光永


《バックナンバー》
○ 2004年8月21日「…私は、知らないから、そのとおりにまた、知らないと思っている」
○ 2004年7月21日「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。」
○ 2004年6月23日「文殊の利剣は諸戯(しょけ)を絶つ」
○ 2004年5月21日「世界に一つだけの花一人一人違う種を持つ…」(SMAP『世界に一つだけの花』)
○ 2004年4月21日「抱いたはずが突き飛ばして…」(ミスターチルドレン『掌』)
○ 2004年3月23日「縁起を見る者は、法を見る。法を見る者は、縁起を見る」
○ 2004年2月21日「…犀(さい)の角のようにただ独り歩め」
○ 2004年1月21日「現代の世に「釈風」を吹かせたい ―心の相談員養成講習会を受講して―」
○ 2003年12月21日「あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように…」
○ 2003年11月21日「…蒼生の福を増せ」
○ 2003年10月21日「ありがたや … (同行二人御詠歌)」
○ 2003年9月21日「観自在菩薩 深い般若波羅蜜多を行ずるの時 … 」
○ 2003年8月21日「それ仏法 遙かにあらず … 」



高野山真言宗 遍照山 光明院ホームページへ