法話集

高野山本山布教師 坂田 義章

 露の法音


 与へられたる「時」の記憶か馬鈴薯の葉に輝ける白露団々


 梅雨のせいでしょうか、馬鈴薯の葉の上に毎朝、露をむすんでおります。その露が白く光っていて、真上から見下ろしますと白光は消えて見えませんが、はなれて見ますと白露団々、楚にして艶、美と力との豊満を示しております。

 露には露の詩があります。神秘があります。これをかなしとするも、華やかなりとするも、人の心の明暗強弱を語る一つの象徴となるのであります。

 いうまでもなく、露はいろいろなものの上にやどります。石垣の上、屋根の上、土の上、板べいの上にやどります。けれども、石や土や木の上は、まことに流れやすく、消えやすいのです。露の最も美しくおちついて宿っているところは葉の上です。木の葉のうえ、草の葉のうえ……。

 池など蓮の葉の上にたまる露は、かなり大きい玉に結ばれるのが普通です。従って、陽がかなり高くなるまで光っています。おどけものの蛙が出て来て葉によじのぼり、撮影:藤井和子さん(光明院檀信徒)その大きい丸い葉のまん中にくぼみをつくりますと、露はするするとそこへ走り落ちて来て蛙の足に真珠の飾りをつけます。しかし、蛙は何の気もないのです。プイと蛙が池の中に飛び込みますと、それと同時に露もまた水の中に……。そしてもう跡形もありません。

 露が、農家の竹やぶや、生垣や、または少し荒れた軒から椿の木の枝などにかけわたしている蜘蛛の巣に、幾粒となくむすびついて光っているのですが、風が吹いてきますと、まるで魔術のようにどこへか散り失せてしまいます。

 露の散り消えるのはその行方がわかりません。はらはらと草の上から土の上に落ちても、落ちたときにはもうその形はないのですから。

 形というものが、ごく束の間のものであるということ、光り輝いている美しさが清く美しいものであればあるだけ、それを人間の生死の上に、世の中の無常ということに結びつけて悲しんで来ました。

 今の私達は、露のもろくも散り失せることよりも、露の白くも、黄金色にも輝きを持ちつつ、その形を与えられ、保たれている間の「時」を充実させている相に心を廻らしたいものです。

 生きよ、清く、美しく、生きて輝けよ。これが露の法音ではないでしょうか。

 金子大栄師は「仏教とは死を問いとしてそれに応える生き方である」と言っておられます。"さようなら"を言う日のために、今、生かされていることの有り難さを法縁として体で受けとめていきたいものであります。

 お大師さまは「仏道遠からず、廻心すなわち是れなり」(一切経開題)と説かれております。廻心とは心をめぐらすことです。生かされてあるわがいのちを、生かしているすべてのものにふり向けてゆくことであります。そのためには、私たちの心のカメラの角度をかえる、それによって美しい世界が発見できます。それぞ功徳であります。

 願わくは、この功徳をもって、あまねく一切に及ぼさん

とお大師さまへの報恩行に生きる喜びを確証していただきたいものです。

南無大師遍照金剛  合 掌 


 この文章は、奈良県五條市の転法輪寺発行『転法輪』(2006年6月)に掲載されました。

《過去掲載分》
○ 2006年4月21日「負い目」
○ 2006年1月1日「別事無し」
○ 2005年8月21日「秋風蕭蕭(しょうしょう)」
○ 2005年7月21日「ハスの花」
○ 2005年6月21日「賽の河原の地蔵和讃」
○ 2005年1月1日「一期一会」
○ 2004年9月21日「仏法遙かにあらず」
○ 2004年3月21日「リンゴの気持ち」
○ 2004年2月21日「ふうせんかづら」
○ 2004年1月21日「心の師」
○ 2003年10月21日「百日紅の花」
○ 2003年8月21日「露団団」




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