仏教と現代
ライブドアとフジテレビと仏教思想
〜仏教で「近代資本主義」を考える〜
昨今、世相を騒がせているライブドアとフジテレビのニュースには、皆さんも関心が高いことと思います。ライブドアのほうが正当性があるというご意見もあれば、フジテレビを守るべきだというご意見もあり、いろいろと議論があるところです。大いに議論しましょう。
今回の騒動の着地点は、つまるところ「どこまでを市場原理にゆだねるか」という点にあると思います。そこで、「仏教と資本主義」という視点で、大雑把に述べてみたいと思います。かなり「こじつけ」もありますが、議論を楽しんでいただくための素材だとお考えください。
(1)インド自由経済の発達と仏教の成り立ち
まず、仏教の成り立ちと社会・経済とのかかわりを見ていきましょう。
釈尊が誕生した紀元前400年前後の北インドは、それまで強固だったカースト制度が若干の揺らぎを見せる時代でした。
インドのカースト制度ははっきり言って迷信に基づく差別の構造ですが、ある面においては、失業を生まないために労働市場を流動化させないための制度でもありました。職業の自由を奪う代わりに、親から子へ、子から孫へと雇用が安定供給されるのですから、失業の心配はいりません。
しかし、商業の発展とともに下層カーストだった商人たちが台頭するようになり、バラモンやカースト制度への権威が揺らぎ始めます。産業構造が変わり、労働市場が流動化したわけです。そこへ、バラモン教に異を唱える様々な自由思想が登場しました。そのひとつが、ガウタマ・シッダールタ(=釈尊)の唱える仏教です。釈尊はバラモン教の言うような、ピラミッド型の思想を否定し、「すべては相互に依存し、影響しあって存在している」(縁起)、「自己こそが自分の主である」(自灯明)などの教えを説き、主に商人などの庶民階級に広まりました。
仏教の成り立ちは、意外にも、インドの自由経済の発達にきっかけがあったのです。なにやら仏教と市場原理との親和性がありそうです。
(2)資本主義とキリスト教プロテスタント思想
とはいえ、この段階で仏教と資本主義との関係は明確ではありません。現在、世界の主流な経済システムである「近代資本主義」というのは、西ヨーロッパで誕生しました。
社会学者マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、いわゆる『プロ倫』によると、キリスト教カルバン派の地域で、資本主義が発達したというのです。確かに、イギリス、フランス、北ドイツ、オランダ、それにアメリカなどが、巨大資本があって、労働者がいて、というような近代資本主義が発達した地域ですね。
宗教が資本主義を生んだというのは、にわかには合点がいきませんよね。
カルバン派というのは、「職業」を通じた禁欲的な生き方こそ、信仰の形であるとして奨励します。この信仰に基づいて労働者が禁欲的に働けば、個人にも企業にも貯金がいっぱいたまります。そのカネが集まって、次第に金融業を軸とする巨大資本が生まれた… それが『プロ倫』の理屈です。
なるほど、そういう意味では、仏教には、僧侶としての厳しい戒律はありましたが、世俗の人に対してそこまで禁欲的な生き方を求めませんでした。仏教というのは、基本的には修行者のための教えです。一方、キリスト教カルバン派は、聖俗関係なく禁欲的生活を求めます。ここでは、仏教と市場原理との親和性は薄いような気がします。
(3)アダム・スミスの考えた市場原理
さて、市場原理といえば、「神の見えざる手」で有名なアダム・スミスです。サッチャリズムが成果をあげたとされる1980年代頃から、経済学の祖スミスも注目されるようになりました。
とはいえ、まだ「経済学者」という呼び名が定着していない18世紀当時の、このスコットランド人の肩書きをご存知でしょうか? 彼を有名にした著書の名は『道徳感情論』。自由放任の権化みたいに思われている彼の肩書きは、実は道徳哲学者だったのです。
では、『道徳感情論』の内容とは、どんなものでしょうか。スミスは、人間の利己心は神が創造の際に人間が幸福となるように与えたものであり、利己的本能に基づいて活動することで、他人をも触発して社会全体を活性化させると考えました。ただし、完全に自由放任にしてしまうのではなくて、そこには必ず「公平な観察者」すなわち第三者のチェックがなければならない、としました。個人の利己的な活動が、第三者の共感を得るものであれば、その利己心は勤勉で賢い方向に向かうと考えたのです。彼は「他者も共感しうる利己心=道徳」という画期的な定義づけをしたわけです。
スミスの考え方がすなわち市場原理だとすれば、それは単なる自由放任ではなくて、「公平なルールに基づく競争」ということになります。
さて、仏教とスミス流道徳思想との親和性は、どのくらいあるでしょうか。釈尊は「自灯明」を説き、何者かに統制されるのではなく、自分らしく生きたらよい、と教えました。ただし、世の中のあらゆることは相互につながっているので、自分が幸せになるためには、極端な生き方を避けたほうがいいとも説きます。これが「中道」です。また日本の弘法大師・空海は、自分を利し他者をも利することこそ菩薩としての生き方だと考えました。仏教とスミス思想との明確な一致点はないものの、親和性はあると言えます。
(4)仏教でよりよい資本主義社会を
もちろん、釈尊や空海の仏教思想は、現代の資本主義や市場原理をまったく想定していません。なので、釈尊や空海が現代に生きていたら何と言うか、私にはまったく想像がつきません。また、仏教にもいろいろあるので、「仏教によると○○」という言い方は適当でないかもしれません。
ですが、これまで見てきたように、仏教の諸原則は必ずしも資本主義とか市場原理を真っ向から否定するようなものではないようです。
そこで、私の独断と偏見により、「仏教の考え方によってよりよい資本主義社会を構築する」という提案をしたいと思います。
まず、個人個人はばらばらに存在するのではなく、相互依存的につながっている(=縁起)と知ることです。だから、目先の利益にとらわれた極端な経済活動をすれば、最終的には自分が損をするので、ほどほどがいちばん(=中道)。一部の金持ちがたくさん富をためこんでも、一定以上の幸せは手に入らないのだから、足るを知る生き方をしましょう(=小欲知足)。そうすればお金は循環し、社会が潤う。
逆に、貧富の格差を拡大させない政策(=慈悲)は、社会を維持し、自分の幸せにもつながっています(=自利利他)。それを理解した上で、自分の幸せのために生きていきましょう(=自灯明)。みなが統制されず自由に生きることで、多様性が生まれ、リスク分散型の、持続可能な社会になります。
う〜ん、やっぱり「こじつけ」の域を出ませんね。はたして議論の参考になったでしょうか??
2005年3月21日 坂田光永
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