法話集

高野山本山布教師 坂田 義章

 くちなしの花


 一茶に、

 そこふむなゆうべ蛍のゐたあたり

と詠んだ句があります。一茶は御存知のように逆境に育ち、多くの愛児を失っております。植物はもとよりのこと、蛍、ハエ、蛙、閑古鳥等に対しまして、命のふれあいを実感し、彼等を己の分身、愛児の分身とみているのです。同情や愛情を超えたそのものになりきっての詠歎であります。生命の空しさを体験した一茶が般若の知恵の眼に照らされ、精一杯生きている、或は、生きたいという生きものの願いを肌で詠んでおるように思われます。

 「存在するものはみな空なり」との教えを知らされ、生命の尊さが愛児との死別によって肌に痛いほどしみとおっていたからこそ、アイロニカルにまたユーモア的に詠歎し得たのでしょう。

 「殺生」という言葉があります。辞書を引いてみますと、「殺すことと活かすこと」「生きものを殺すこと」と書いてあります。私は「殺して活かすこと」と読みたいのです。ものを殺すことによって人間を活かすことであります。仏教では殺生戒というのがありまして、何でも命あるものを殺してはならないと教えられています。

 スリランカでは、蚊も殺さず、そっとうちわで払いのけるというようにきびしい戒律を守り続けているそうです。僧侶たちは、昔から水を汲む時、木綿の布をはった杓で水をこして汲みます。水の中にいる眼に見えない微生物を飲んでしまっては可愛いそうだと言うのであります。そして、動物の生命をとるのは殺生戒だと言って菜食をしていると言うことです。魚や鳥を殺すだけが殺生ではありません。米も野菜も水も皆生きています。だまってとられ、だまって切りきざまれている葉っぱや、大根や、米粒の中にも、命は黙って生きています。

 "一粒の麦、地に落ちて死なずば"という言葉があります。一粒の米が地にまかれたら、どれだけ多くの米を生じるでしょうか。一粒の米の中に潜んでいる命の強さ、尊さを私達は考えてみようともせずに口に入れ、歯で噛みくだき、自分の血や肉に消化しきってしまっております。それも殺生戒です。

 生きるためには何かを食べなければなりませんから、其の時には両手を合わせて、犠牲になっていただくのだという感謝の気持ちを自分の生活に取り入れてゆくことが大切であります。

 米を洗うとき、一粒でも流しに米をこぼしますと、としよりが口やかましく注意したものです。「一粒の中にも仏様がいらっしゃる。粗末にすると罰が当たるぞ」と。米粒の中の仏とは、ものの命の尊さをあらわしたものでありましょう。

 草木国土、すべてのうちに仏性が宿り、すべてのものが成仏することができるという仏教の教えも、せんじつめますと、この世にあるすべてのものに、命が宿っているということの尊さと不思議さを言いあらわしているのではないでしょうか。

 夕べの庭にくちなしの花が匂っております。心の奥底にあるものを呼びさますような香りであります。じっと見ていますと、この花にも、自然のはからいがなされているのだなあと思わず手を合わせ、拝まずにはいられません。私達の忘れ物は多いのですが、その多い忘れ物を思い出してくださいと言っているように思われます。

 忘れものはないかと言ふやう追ってくる路地の往還くちなしの花

南無大師遍照金剛  合 掌 


 この文章は、奈良県五條市の転法輪寺発行『転法輪』(2006年9月)に掲載されます。

《過去掲載分》
○ 2006年7月21日「露の法音」
○ 2006年4月21日「負い目」
○ 2006年1月1日「別事無し」
○ 2005年8月21日「秋風蕭蕭(しょうしょう)」
○ 2005年7月21日「ハスの花」
○ 2005年6月21日「賽の河原の地蔵和讃」
○ 2005年1月1日「一期一会」
○ 2004年9月21日「仏法遙かにあらず」
○ 2004年3月21日「リンゴの気持ち」
○ 2004年2月21日「ふうせんかづら」
○ 2004年1月21日「心の師」
○ 2003年10月21日「百日紅の花」
○ 2003年8月21日「露団団」




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