法話集

高野山本山布教師 坂田 義章

私達の忘れ物


  (一)

 "智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。" これは人口に膾炙(かいしゃ)されている夏目漱石の『草枕』の中にある言葉であります。

 特攻隊出撃、不時着水、奇しくも死の風景を見るだけで幕が下り、生を得ました。その帳尻を合わすために、私のかわりに誰かが冥界に行っているのです。

 「生きていることが窮屈です。父さん、この気持ちわかりますか」と言いますと、父はそれには応えずに次のように言いました。

 「窮屈だ、窮屈だとぼやいていると、よからぬ味つけを心に重ねるようになるぞ」と。

 「それは何ですか」と尋ねますと、

 「よからぬ味つけとは、それは、ねた味、そね味、ひが味、やっか味、うら味の五つの味つけだよ」と教えられました。

 この味つけは、父が亡くなり、老いを迎えた今日も毎日おうかがいをたてに来ているのです。

 部屋に、「柳は緑、花は紅(くれない)」と言った禅語の掛け軸がかけてありますが、さらさらと水の流れるように、無心に、素直に生きる人間に程遠い私をもう一人の私が悲しそうにいつも見つめております。

 つつましいほど華麗と言ふべけれ路地の隙間に吾亦紅(われもこう)覗(のぞ)く


  (二)

 "一粒の麦、地に落ちて死なずば"という言葉がありますが、一粒の米が地にまかれたら、どれだけ多くの米を生じるでしょうか。一粒の米の中に潜んでいるいのちの強さ、尊さを私達は考えてみようともせずに口に入れ、歯でかみくだき、自分の血や肉に消化しきってしまっています。物の生命を大切にしなければならぬことはよく知っていても、他者を犠牲にして初めて私達の生命は保たれるのです。これが人間の姿であります。その事を十二分に肯定しながらも、人間の不可解さ怖さを知らされます。それと同時に、これを超えようとするのも人間なのであると、人間をいとおしむ気持ちにもなれるのであります。

 生きるためには何かを食べなければなりませんから、其の時には両手を合わせて、犠牲になっていただくのだ、食べさせていただく飲ませていただくという感謝の気持ちを自分の生活にとり入れてゆくことが大切であります。

 米を洗う時、一粒でもながしに米をこぼしますと、としよりが口やかましく注意したものです。「一粒の中にも仏様がいらっしゃる。粗末にすると罰が当たるぞ」と。米粒の中の仏とは、ものの命の尊さをあらわしたものでありましょう。

 草木国土、すべてのうちに仏性が宿り、すべてのものが成仏することができるという仏教の教えも、せんじつめますと、この世にあるすべてのものに、いのちが宿っているということの尊さと不思議さを言いあらわしているのではないでしょうか。

 夕べの庭にさざんかの花が匂っております。心の奥底にあるものを呼びさますような香りであります。じっと見ていますと、この花にも、自然のはからいがなされているのだなあと思わず手を合わせ、拝まずにはいられません。私達の忘れ物は多いのでございますが、その忘れ物を思い出して下さいと言っているように思われます。

 御大師様は「仏道遠からず、廻心すなわち是れなり」(一切経開題)と説かれています。廻心とは、心をめぐらすことです。生かされているわが命を、生かしているすべてのものにふり向けて行きたいものです。そのことによって、お大師さまへの報恩行に生きている喜びが確証できるでしょう。

 忘れものはないかと言ふや追ってくる路地の往還さざんかの花


南無大師遍照金剛  合 掌 


 この文章は、光明院発行『遍照』(2007年1月)に掲載されました。

《過去掲載分》
○ 2006年8月23日「くちなしの花」
○ 2006年7月21日「露の法音」
○ 2006年4月21日「負い目」
○ 2006年1月1日「別事無し」
○ 2005年8月21日「秋風蕭蕭(しょうしょう)」
○ 2005年7月21日「ハスの花」
○ 2005年6月21日「賽の河原の地蔵和讃」
○ 2005年1月1日「一期一会」
○ 2004年9月21日「仏法遙かにあらず」
○ 2004年3月21日「リンゴの気持ち」
○ 2004年2月21日「ふうせんかづら」
○ 2004年1月21日「心の師」
○ 2003年10月21日「百日紅の花」
○ 2003年8月21日「露団団」




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