法話集

高野山本山布教師 坂田 義章

おかげさま


 人の世の業の身に沁む風花に濡れ濡れて咲くこの木瓜(
ぼけ)の緋()は

 仏教では、身、口、意の三つの働きを重んじております。

 唯今も、お授けしました「懺悔」の文に

  我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴 從身語意之所生 一切我今皆懺悔
 (
がしゃくしょぞうしょあくごう かいゆむしとんじんち じゅうしんごいししょしょう いっさいがこんかいさんげ

とあります。わかりやすく申しましょう。

 無始よりこのかた貪瞋痴の煩悩にまつわれ身と口と意とに造るところの、もろもろのつみとがを、みな悉く懺悔したてまつる

となりますが、特に口の働きを重視しております。

 三匙(
さんぴ)の偈()というものがあります。

  一口為断一切悪 二口為修一切善 三口為度諸衆生 皆共成仏道
 (
いっくいだんいっさいあく にくいしゅういっさいぜん さんくいどしょしゅじょう かいくじょうぶつどう

という偈であります。つまり一口食べては一切の悪をしないように心がけ、二口食べては一切の善を進んで行い、三口食べては諸衆生、即ち、大勢の人のために奉仕し、皆共々に仏道を成ずるように努めようというのであります。

 この三匙の偈は食事に際しての偈であります。しかし、食事のことに限らず、一口開いては悪口を言わないように、二口開いては善いことを言うように心がけたいものであります。

 わが真言宗ではこの「口業」(
くごう)即ち口の働きを「口密」(くみつ)と読んでおります。口密というのは仏様の言葉を語ることであります。仏様の言葉を真言というのであります。真言は仏様のお名前であり、誓い、願いの言葉であります。詠歌にいうところの「仏の誓いただ頼むなり」であります。

 この仏の誓いは「すべての人をみな救う。きわまりのない福徳と智恵を身に積む。はかり知れぬ仏法を学ぶ。数限りなき多くの仏に仕える。たぐいなき仏道を行ずる。」の五大願に展開されます。過去、現在、未来の三世三千の諸仏とその名は多いのですが、その誓願は一つに帰します。

 「万人の救われんことを、全人が仏にならんことを」であります。そして、この誓願の象徴が合掌であります。

 千手千願の観音さまは数あるおん手を持っておられます。その数あるおん手の中で、中央の両手は合掌をされておられます。“早くほとけになれよ、めざめてくれよ”とのお頼みです。みほとけが手を合わして拝まれる戸疎い仏の心を、だれ一人の例外なく万人がそれぞれに自分の心中に有しているのです。このこころがほとけのいのち(仏心)です。仏様の合掌に応えて、自己が合掌するのは、そのまま自分に合掌するのであります。すると、自分がほんとうの自分になるのです。人間の中にふかぶかとしたものが生まれてきます。人間の心の底、奥深い所を、地下水のように根源的に埋めこめられてあるものが感得されます。存在しながら自覚できなかった仏心がよみがえるのです。それと同時に他の人も人間の本心(仏心)にめざめさせようという願いがわいて参ります。

 仏さまの言葉である真言を唱えることによって仏さまの力を加持されるのであります。

 この事をお大師さまは「仏の力を借らねば悪い心を除いて真理をさとることは出来ない」(秘蔵記)を言われております。

 南無大師遍照金剛と唱えます。御宝号と言っておりますが、この御宝号も真言であります。お慈悲を垂れ下さって有り難うございますという感謝の気持ちがこめられております。御宝号を唱えてもおかげさまでありがとうございますという感謝の言葉が花開かないようでは駄目であります。真言の基本は感謝の言葉であります。合掌ができ、感謝の言葉が言えるようになった時、私たちは真の仏さまになれたのです。

南無大師遍照金剛  合 掌 


 この文章は、転法輪寺発行『転法輪』(2007年3月)に掲載されました。

《過去掲載分》
○ 2007年1月1日「私達の忘れ物」
○ 2006年8月23日「くちなしの花」
○ 2006年7月21日「露の法音」
○ 2006年4月21日「負い目」
○ 2006年1月1日「別事無し」
○ 2005年8月21日「秋風蕭蕭(しょうしょう)」
○ 2005年7月21日「ハスの花」
○ 2005年6月21日「賽の河原の地蔵和讃」
○ 2005年1月1日「一期一会」
○ 2004年9月21日「仏法遙かにあらず」
○ 2004年3月21日「リンゴの気持ち」
○ 2004年2月21日「ふうせんかづら」
○ 2004年1月21日「心の師」
○ 2003年10月21日「百日紅の花」
○ 2003年8月21日「露団団」




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