法話集
高野山本山布教師 坂田 義章
到りうべしや
慎みを秘匿(ひとく)してゐる姫沙羅の面(も)に漂へる生と性の余韻
(一)
彼岸は彼方にある理想の世界、あるいは悟りの境地と言われております。迷いを去って悟ということは、現代的に言いますと、真実に生きる道、真実の相の体得、みきわめであると思っております。
物が上から下に落ち、燃料が何でありましょうとも、水は熱せられて百度で沸騰して容器のふたを持ち上げます。これが真実の相です。
リンゴが樹から地上に落ちる音を聞いて引力の法則を、真理を発見したのはニュートン一人であります。百度に熱せられた蒸気ふたを持ち上げるを見出したのはジェームスワット一人です。
要するに目に見える現実はすべてがなんらかの心理をそのまま表現しています。その真実に気づかないのが私達凡夫です。
三蹟の一人、小野道風は、雨の日に川のほとりにある柳に、蛙がとびつくのを見て、人は努力しなければならないということを知ったと言われます。蛙は道風に努力の必要性を訴えて柳にとびつこうとしたのではありません。
聞く人、見る人にその心構えがあって初めて行足への知慧の眼がひらけて来るものでありましょう。
(二)
宗教の使命は「語るよりむしろ歩むところにある」と言われております、いや、宗教は語るべきものではなくして、歩むべきものであります。歩むということは行ずるということです。実践するということです。
お大師さまはこの身を世に留めたまま高野山奥の院に入定されております。入定されたということはお大師さまが人生の悲願を私達に影現される必要があったためであると思っております。その悲願は理趣経百字の偈の四句二十字に示されております。
菩薩勝慧者 乃至尽生死 恒作衆生利 而不趣涅槃
( ほさっしょうけいしゃ だいししんせいし こうさくしゅうせいり じふしゅでっぱん )
この四句の偈をわかりやすく申しますと、「非常にすぐれていて知慧のあるもの、すなわち真言行者は苦しんでいる人々を救って向こう岸に送りとどけるために自分は彼岸にわたらない」と。
この皆倶成仏道の精神、皆とともに仏道を成じて行く同行二人の御誓願がお大師さまの永遠の願いであり、永遠のいのちであり、また私達への道標を示されたものであります。道標は私達を招いております。
御苦労さま∞おかげさまです≠ニかたみに声をかけながら、智目と行足の一歩をふみ出す努力を惜しまなければその努力は必ず報いられるはずであります。性霊集(しょうりょうしゅう)には、その体験が詠まれております。
洪鐘の響 機に随ひて巻舒し 空谷の応 器を逐ひて行蔵す
( こうしょうのきょう きにしたがひてけんじょし くうこくのおう きをおひてこうぞうす )
とあります。わかりやすく申しますと、鐘はつき方の強弱に正比例し、こだまは声の大小に正比例するということであります。
私も日の暮れかかった年令でありますが、「智目、行足、清涼池に到る」という言葉を心に銘じて好日の道、人にうらやましがられない生活に生きております。
到り得べしや そは吾しらず
であります。
南無大師遍照金剛 合 掌
この文章は、転法輪寺発行『転法輪』(2007年6月)に掲載されました。
《過去掲載分》
○ 2007年3月21日「おかげさま」
○ 2007年1月1日「私達の忘れ物」
○ 2006年8月23日「くちなしの花」
○ 2006年7月21日「露の法音」
○ 2006年4月21日「負い目」
○ 2006年1月1日「別事無し」
○ 2005年8月21日「秋風蕭蕭(しょうしょう)」
○ 2005年7月21日「ハスの花」
○ 2005年6月21日「賽の河原の地蔵和讃」
○ 2005年1月1日「一期一会」
○ 2004年9月21日「仏法遙かにあらず」
○ 2004年3月21日「リンゴの気持ち」
○ 2004年2月21日「ふうせんかづら」
○ 2004年1月21日「心の師」
○ 2003年10月21日「百日紅の花」
○ 2003年8月21日「露団団」