仏教と現代

最澄と空海


 先日、東京・上野の国立博物館で催された「最澄と天台の国宝」展をのぞきに行ってきました。平日にもかかわらず、(失礼ながら)予想外に入場者が多くて目を見張りました。最澄というと、一般の人にはピンと来ないかと思っていたのですが、まったくの思い違いでした。改めてその「人望」に驚かされたわけです。

 展示を見て強く感じたのは「多様性」です。最澄と比叡山を軸とした天台宗の、それはもうバラエティなこと。法華あり、密教あり、禅あり、浄土教ありで、「平安以降の日本仏教はすべて天台宗にそろっている」と言っても過言ではありません。

 ただし、多様性は裏を返せば「雑多性」でもあります。最澄は天台を「総合仏教」にしようとしたけれども、総合しきれずにこの世を去ったのでしょう。そのため、さまざまな宗派が入り乱れたまま、統一感なく残ったのだと言えます。もちろんそれは悪いことではないでしょう。なぜなら比叡山は、源信、空也、法然、親鸞、日蓮、道元ら中世仏教の始祖たちを次々と輩出したのですから。

 真言宗のお寺のHPなのに、延々と最澄のお話を書き記していますが、私は今回の展示を見て、最澄を知れば知るほど、かえって空海の人物像がより鮮明になったと感じています。

 あなたは(変な質問ですが)もし友達にするならば、最澄と空海と、どちらがいいですか? 私は迷わず最澄です。最澄は人に優しいし、正直だし、欲はないし、貴賎の差別をしません。そんな最澄の、優しさゆえの優柔不断さが招いた結果として、雑多なままの天台宗が今に至るのです。

 一方、空海とはどんな人物だったでしょうか。最澄と空海は何から何まで対照的です。空海は人に厳しく、頭がよく、そして最澄よりもはるかに「どん欲」だった。だから真言宗は、どこまでも果てしなく密教に貫かれています。空海以降、高野山からは優秀な人材が出ません(もしくは覚鑁のように降りてしまうか)。それは、空海の教えがあまりに完成されすぎていて、弟子たちの出る幕がなかったからかもしれません。

 では、どうしてそこまでどん欲になれたのか。それはもう、最澄という良きライバルがいたからにほかなりません。

 4月21日を前後して、全国各地では「正御影供」が執り行われます。4月21日というのは空海が永遠の禅定に入った日です。最澄と空海。二人の性格は違えども、ともに今も民の幸せを祈り続けていることに変わりはありません。

2006年4月21日 坂田光永


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