法話集
高野山本山布教師 坂田 義章
「見られている」
庭先きのふうせんかづら揺れてゐる老いの心のもう一つの顔
(一)
日の暮れるのが、おそろしく早くなりました。陽ざしが庭樹の梢にちらちら動くかとみるまに、夕闇の下枝の葉のかげから、庭のすみずみから、縁側にしばしたたずむ自分の足もとから、靄のように湧き上がってきます。
今日の一日も暮れてゆきます。空しい悔恨の上に夕闇は落ちてきます。生命は秋となり、心は夕となります。しかも夕映もなく消えてゆく秋の夕のほろ苦い光です。
「また薄墨に日の暮るる、秋の夕の悲しさには……」という或る明治の作家の作品の冒頭を秋の夕の眺めどき、いつも思いだします。
ふりかえってみて、自分は何をして来たのでしょう。何をかち得たのでしょうか。人の顔もおぼつかないかはたれどき、この逢魔が時に生滅する自分の一生に思いが馳せられてゆきます。
(二)
わたしたちは深い考えもなくなにげなく「鏡を見る」と言っております。このことは、実は「鏡から見られている」のです。鏡から受け身に見られているから、私達は自分の顔の汚れが見えるのです。鏡を見ることは、加工されたガラス面を見るのではなく、自分を見、自分に気づく営みに他ならないのです。そのために私達は鏡から見られ、鏡に写し出されている自分を見てはじめて自分が見えるのです。
観自在菩薩も同じで「世間の多くの人から見られつつ多くの人々を観、そして度う機能が自由自在であることを指す」のです。
私達は自分の顔を鏡がなかったら見ることができないのです。鏡を見ることが自分を見、自分に出会うすばらしい縁になるのです。
(三)
釈尊の修行のひとつに「よく自分を見すえる」精進があります。自己観察です。自己観察の修行の内容を名づけたのが「観世音菩薩」です。この名を具体的にすがた形に示されたのが観音像であります。
鏡にうつる自分の姿を見て「自分だ」とわかるのは人間にだけ与えられた英知のようです。たとえば、犬が水面に映ずるわが影を自分以外の犬だと思って吠えたて、せっかく口にくわえていた肉切れを水中に落としたという話がイソップ物語にあるのをご存知でしょう。
鏡は無意識に対象を映すだけです。人間以外の動物は鏡の中の映像を自分以外のものであるとみます。また、植物や自然の山や雲は、その影が水にうつっていることも知りません。古歌に、"うつるとも月は思はずうつすとも水も思はず猿沢の池"とありますが猿沢の池に限るものでもありません。この一首は、本来はうつる月と、うつす水の両者の無心の心情をたたえているのです。
無心の月が、これまた無心の水にうつり、うつされる情景はたしかに美しい。写真も無意識にうつされる方が、その人の巧まざる人間性が画布にあふれていて秀作が多いようです。
信心も、まだ無意識の信心にまで達しませんと本物ではありません。しかし、だれしもはじめから本物などであるわけがありません。努力の上に努力を積み重ねて本物になり無心になれるのです。
鏡を見るのも美しくなろう、きれいになろうとの自我の意識が旺盛でないと本気になって鏡など見られるものではありません。そのうちに鏡を見るとは、鏡に見られていることだということで鏡の見方も真剣になります。
(四)
「見る」を"拝む"、「見られる」を"拝まれる"と読みかえますと、観音さまのこころに一歩近づくことができます。私達人間が仏さまにたすけて下さいとせがむより先に観音さまは拝んで下さっているのです。"人間を人間たらしめる純粋な人間性(仏の命)をあなたは持っている。自分の尊さに一日も早く気づいてほしい。そのめざめが本当の救いになる"と人間の自覚を念じて下さっているのです。
観音さまの合掌にこたえて私達も合掌するのです。仏教とは『人間の自覚を念じて、ほとけが人間を拝む宗教』なのであります。
南無大師遍照金剛
合 掌
この文章は2008年1月発行『遍照』に掲載されました。
《過去掲載分》
○ 2007年10月21日「桜池院前官追悼詠草」
○ 2007年9月21日「おかげさまで」
○ 2007年7月21日「到りうべしや」
○ 2007年3月21日「おかげさま」
○ 2007年1月1日「私達の忘れ物」
○ 2006年8月23日「くちなしの花」
○ 2006年7月21日「露の法音」
○ 2006年4月21日「負い目」
○ 2006年1月1日「別事無し」
○ 2005年8月21日「秋風蕭蕭(しょうしょう)」
○ 2005年7月21日「ハスの花」
○ 2005年6月21日「賽の河原の地蔵和讃」
○ 2005年1月1日「一期一会」
○ 2004年9月21日「仏法遙かにあらず」
○ 2004年3月21日「リンゴの気持ち」
○ 2004年2月21日「ふうせんかづら」
○ 2004年1月21日「心の師」
○ 2003年10月21日「百日紅の花」
○ 2003年8月21日「露団団」